アンリ・ゲオン  

Henri Gheon   1875-1944

演奏に関する「箴言」

はじめに
クヴァンツ
テュルク
C.バーニー
L・モーツァルト
スタンダール
R.シューマン
C.ドビュッシー
フィッシャー
ゲオン
ランドフスカ 
ザウアー
スコダ
ブレンデル
武満 徹
C.ローゼン
浅田 彰
Henri Gheon

フランスの詩人、劇作家、小説家。
パリで活躍。音楽、美術の分野でも、多くの批評を行っている。アンドレ・ジードとも親交を結んだ。
「モーツァルトの散歩」が執筆されたのは、1932年のことだったが、小林秀雄が『モォルァルト』の中で本書のことを紹介し、その存在が知られるようになった。邦訳は、1964年に、高橋英郎の訳により白水社から出版された。


いかにして無限を表現するか?有限のなかに、簡潔さのなかに、有限の完成美のなかに無限を刻むこと、ここに芸術そのものの目的があるのだ。

アンリ・ゲオン

ワーグナーの無限旋律は、ゲオンにとっては、「自己の限界を絶えず後退させる芸術」であったようです。
時間的持続の濫用であるとも言っています。
モーツァルトの「有限の完成美」は、その対極にあるものとして称揚されるわけですが、このような立場を離れても、ゲオンのこの言葉は、モーツァルトの芸術の特徴をよく捉えているように思えます。

芸術において、聖なるものと世俗のものとの境界を厳密に分つことは、実にむずかしいことである。
ことに質量のない素材を用い、物体の形象と同じように人間の思考へ還元できず、官能的であると同時に精神的とも言える音楽の場合はなおさらである。

アンリ・ゲオン

この言葉は、19世紀のカトリック教会が、モーツァルトの音楽を「世俗的なもの」として攻撃したという歴史的文脈で読む必要がありそうです。
カトリック教徒であったゲオンは、モーツァルトの音楽、とくに宗教曲がそのような扱いを受けたことをさりげなく批判しているのでしょう。

そのことは別にして、宗教曲における世俗性が指摘できるのであれば、器楽曲における「聖性」の存在も指摘できるのでしょうか。
この辺については、なお研究の余地がありそうです。

モーツァルトは老バッハのような、巧みで、自由で、生き生きとしたフーガを書いたり、古風で、古典的な対位法の源を汲みつくすだけでは甘んじなかつた。ことに彼にとっては、それらのたくましさや、密度や、意義を、彼個人のすでに完壁ではあるが柔軟な歌に注ぎ、また、美の全く地中海的理想によって、それらの躍動を規整し、過剰を抑えることが問題だった。
モーツァルト、それはフランス趣味によつて洗練されたイタリアなのだ。

アンリ・ゲオン

ワーグナーを中心とするロマン派芸術の誇張と興奮を忌み嫌ったゲオンは、その淵源を大バッハにも求めたようです。
その対極にあるモーツァルトについては、大バッハの学習の成果であるフーガに対してすら、異なった意味が与えられたのでしょう。この指摘は、ある意味でとても興味深いし、モーツァルトのフーガを弾く上で参考になると思います。
しかし、それにしてもモーツァルトを「フランス趣味によって洗練されたイタリア」と決めつける自信はどこから来ているのでしょうか。

(フルート四重奏曲ニ長調K285)第1楽章(アレグロ)は、1787年の無二の傑作『弦楽五重奏曲ト短調』K516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、流れゆく悲しさ(tristesse allante)、言い換えれば、爽快な悲しさ(allegre tristesse)とも言える《テンポ》の速さと対照をなしている。この晴れやかな陰翳という点からみれば、それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、彼のアダージオやアンダンテなどのうちのいくつかをよぎる透明な告白よりもずっと特殊なものである。

アンリ・ゲオン

「tristesse allante」 という言葉は、小林秀雄の引用によって有名になりましたが、同じこの箇所で言っている「晴れやかな陰翳」という言葉も、モーツァルトの音楽、とくに速いテンポの楽章を的確に表現しているように思えます。

(引用文献)アンリ・ゲオン「モーツァルトとの散歩」高橋英郎訳(白水社)

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