Franz Joseph Haydn

対照的な人生

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn 1732 - 1809)の人生は、モーツァルトと対照的だったかもしれません。
Haydn35年あまりの短い生涯を悲劇的な最期で終えたモーツァルトと異なり、ハイドンは、とても長い音楽人生を送りました。大バッハの死よりも18年前に生まれたハイドンが亡くなったのはメンデルスゾーンが生まれた年でした。
モーツァルトは、貴族社会の中に生を受けましたが、ハイドンは、典型的な農村であったローラウで、車大工の子として生まれました。モーツァルトが、最先端のロココの優雅な音楽に触れて育ったのに対し、ハイドンが子供のときに聴いた音楽は、オーストリアの田舎の音楽であり、その中には、ハンガリーやジプシーの民族音楽も混じっていました。
モーツァルトが早くから優れた音楽家たちに囲まれ、父親から専門的な音楽教育を受けたのに対して、ハイドンはウィーンに出て合唱団に入ったものの、変声期に入ると追い出され、ほとんど独学で音楽を勉強しました。モーツァルトが、神童としての名声を早くからほしいままにしたのに対し、ハイドンは、ゆっくりと、そしてじっくりと、自らの音楽人生を創り上げていきました。
また、ハイドンは自然に愛着を感じていたようですが、モーツァルトはその膨大な手紙の中で自然や風景の美しさを愛でた部分はほとんどないようです。

このように、モーツァルトとハイドンは、対照的な人生を送りましたが、互いに作風の違いを意識しつつもその真価を認め合い、尊敬の気持ちを抱き続けました。
モーツァルトが自分よりも24歳年長であったハイドンに抱いた尊敬の気持ちは、1785年にハイドンに捧げられた有名な6曲の弦楽四重奏曲 ― ハイドン・セットに込められています。一方、ハイドンの方も、モーツァルトのことを高く評価し、ウィーンを訪れた父親レオポルドに会ったとき、こう言ったと言われます。 ― 「私は誠実な人間として神にかけて申し上げますが、御子息は、私が直接知っている、あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な方です。……」

ハイドンのクラヴィーア作品
ハイドンの作品番号であるホーボーケン番号(Hob.)の]Yは、「鍵盤楽器のためのソナタおよびディヴェルティメント」とされています。この「ディヴェルティメント」という用語法は、ヴァーゲンザイルのページでも触れましたように、1750年代前後に「ソナタ」を指した、ウィーンの用語法です。

この用語法に象徴されるように、極めて長い音楽人生を送ったハイドンは、モーツァルトよりも早くから、クラヴィーアのためのソナタを書き始め、モーツァルトの死後も、この分野での傑作を残しました。
ハイドンがクラヴィーア・ソナタを書いた時期は、1760年前後から1795年までの約35年にわたっています。これに対してモーツァルトがクラヴィーア・ソナタを書いた時期は、1774年から1789年までの約15年間でした。
このように長い期間ににわたり、ハイドンは、60曲前後のソナタを書きました。それらは、当然のことながら、様式や内容の面で、かなりの変化を遂げています。
初期のソナタは、バロック時代の舞曲の雰囲気が濃厚です。

ハイドンも、モーツァルトと同じように、鍵盤楽器がチェンバロからピアノフォルテに移っていく時代を生きました。ハイドンは約30年間エステルハージ家に仕えましたが、この間ハイドンは、合奏やオペラを指揮するのにチェンバロを使っていたことが記録に残っています。ときどきは、侯爵家の居城があったアイゼンシュタットから、ウィーンへ出ていったようですが、狭い世界に生きたハイドンがピアノフォルテを知ったのは、モーツァルトよりもかなり遅かったのは確実です。
1780年に出版されたアウエンブルッガー姉妹のための6曲集(第35 ― 39、20番)では、スコアにかなり詳しいディナーミクが書き込まれています。ハイドンはこの頃ピアノフォルテの性能を知り、この楽器のために本格的に作曲し始めたのではないかと考えられています。

ハイドンは、モーツァルトの死後の1794年から翌1795年にかけてイギリスを訪れ、クラヴィーア・ソナタの最後を飾る、Hob.]Y ― 50.51,52 の3曲を作曲しています。これらのソナタの響きは力強く、モーツァルトのソナタとは異なった作風となっています。その背景には、ハイドンがロンドンでイギリス式のアクションを持つピアノフォルテを知ったことがありました。で当時のイギリスを代表するクラヴィーア制作者であったジョン・ブロードウッドの楽器は、軽いタッチのウィーン式アクションと異なり、タッチが重く、鍵盤も深かったので、力強い、重厚な音が出ました。それは、モーツァルトが知ることのなかった楽器でした。
モーツァルトとハイドン
モーツァルトがいつハイドンに出会ったかはよくわかっていません。
ハイドンは、 アイゼンシュタット (右はアイゼンシュタットの教会)のエステルハージー侯に仕えており、ときどきウィーンに出ていく以外は、ここにとどまっていました。
しかし、モーツァルトはハイドンに出会う前から、その作品を研究していたことは確かです。
1775年にミュンヘンで作曲された最初のクラヴィーア・ソナタのグループには、ハイドンの影響が見られます。アインシュタインは、この曲集へのハイドンの影響を重視し、これらのソナタは「ヨーゼフ・ハイドンそのものである。モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。彼は再び自分自身を発見しなければならない。」とまで書いていますが、果たしてどうでしょうか。
私は、表面的な類似性以上に、むしろこのふたりの作曲家の個性の違いを感じます。この点については、小著「モーツァルトのピアノ音楽研究」 に、「モーツァルトとハイドン」の章を設けていますので、参照していただければ幸いです。
モーツァルトがウィーンに移り住んでから作曲したクラヴィーア・ソナタは、ますますハイドンから遠ざかっており、モーツァルトはこの分野でハイドンをもはや顧みることはなかったように思われます。

 ウィーンに戻ったモーツァルトは、暮れの十二月十四日、イギリスの興業主ザロモンの招きでロンドンに渡るヨーゼフ・ハイドンの送別の宴に出席した。これが偉大な二人の音楽家の永遠の別れとなった。

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