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最大の音楽都市

当時パリと並ぶヨーロッパ最大の音楽都市がロンドンでした。18世紀後半のイギリスは、国王ジョージ3世のもとで未曾有の繁栄を誇っていました。(下は18世紀のロンドン。中央にテームズ川が流れています。)
18世紀のロンドン音楽を楽しみ、クラヴィーアを弾くのが、ごく一部の王侯貴族にとどまっていたドイツと異なり、イギリスでは、貴族のほかに、富裕な市民が広くコンサートを楽しみ、家庭での楽器演奏に興じていました。音楽を楽しむ人々の幅が、格段に広かったわけです。
イギリスには、17世紀のヴァージナル音楽以来の伝統があり、人々は鍵盤楽器に強い関心を示してきました。
18世紀の半ば、イギリスでもっとも有力な鍵盤楽器制作家が、スイス生まれのバーカト・シュディ(Barkat Shudi 1702 - 73)でした。
七年戦争を避けてドイツから亡命してきたヨハネス・ツンペ(イギリスに来てからはズンペということになりますが)は、シュディの工房に入り、たちまち頭角を顕します。
ズンペはまもなく独立し、大量生産できる小型のスクエア・ピアノの制作を始めます。


スクエア・ピアノの普及

スクエアピアノ右の写真は、1777年頃に制作されたズンペ型のスクエア・ピアノです。
音域は5オクターブで、手で操作するストップによって半分ずつのダンパーを上げて弦を開放することができるようになっています。(この写真は、ATHENE RECORDS からお借りしています。)
ズンペのスクエア・ピアノを演奏してたいへんな人気を博したのが、バッハの末の息子、ヨハン・クリスティアン・バッハでした。「ロンドンのバッハ」とも呼ばれる音楽家です。
ロンドンのバッハのことは、このサイトのあちこちで出てきますので、ここではその人となりは省略しますが、彼は、ズンペのスクエア・ピアノを想定して鍵盤楽器のための作品をつくっていきました。1768年に出版された、6曲からなる作品5のソナタはその代表作です。
この曲集は大きな人気を博しましたが、小型で値段も安いズンペのスクエア・ピアノは、市民階級も含めたイギリスの家庭の中に普及していきました。

ブロードウッドへ

ヨハン・クリスティアン・バッハはモーツァルトに大きな影響を与えたわけですが、モーツァルトがロンドンに滞在したのは、1764年4月23日から1765年7月24日までで、モーツァルトが果たしてズンペの楽器を知ったのか、ヨハン・クリスティアン・バッハはズンペのスクエア・ピアノを弾くのに立ち会ったのかという点では、ひじょうに微妙な時期に当たっています。モーツァルトがこの楽器を知ったという可能性は肯定も否定もできないように思われます。
こうしてズンペの楽器は一世を風靡したわけですが、1780年代に入ってズンペが亡くなると、イギリスのピアノフォルテの生産をさらに発展させたのが、シュディの娘婿であるジョン・ブロードウッド(Jhon Broadwood 1732 - 1812)でした。
ブロードウッドのピアノは、モーツァルトの死後ロンドンを訪れたハイドンにも影響を与えることになります。ブロードウッド社はますます発展し、パリのプレイエル社とともに、19世紀のピアノの時代をリードすることになります。

(イギリスのおけるピアノの歴史は、UK Piano Page  で知ることができます。)


ピアノフォルテとの出会い