久元 祐子 ピアノ・リサイタル
2006 年 9 月 30 日( 土) 14:00 東京文化会館
Program note

  
2010.4.6
2008.9.1
2008.4.15
2007.7.31
2006.9.30
2006.4.22
2005.9.13
2004.9.1
2003.10.29
2003.5.31
2002.11.20
2002.5.9

モーツァルト :ロンド イ短調 KV511

モーツァルト :フランスの歌曲「ああ、お母さん、聞いて下さい」による12の変奏曲 ハ長調 KV265
 
モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 KV309   

  第1楽章 Allegro con spirito ハ長調
  第2楽章 Andante un poco adagio ヘ長調
  第3楽章 Rondeau:Allegretto grazioso ハ長調

(以上 ベーゼンドルファー使用)

ムソルグスキー: 組曲「展覧会の絵」

プロムナード/第1曲 グノーム(こびと)/プロムナード/ 
第2曲 古城/
プロムナード/第3曲 テュイルリィー/第4曲 ビドロ/ 
プロムナード/第5曲 卵の殻をつけたひなどりのバレー/
第6曲 サミュエル・ゴールデンベルグとシュミーレ(二人のポーランドのユダヤ人)/
プロムナード/第7曲 リモージュの市場/
第8曲 カタコンブ −死者とともに死者の言葉をもって/
第9曲 バーバ・ヤーガ(鶏の足の上の小屋)/
第10曲 キエフのボガティル門

(以上 スタインウェイ使用)



<プログラム・ノート>    久元 祐子
モーツァルト  : ロンド イ短調 KV511

 1787年3月11日、ウィーンで作曲された。ロンド主題は、溜息をつきながら進むような半音階進行が見られ、冒頭から入り組んだ、そして不思議な雰囲気を醸し出す。なぞめいているのだが、同時に澄み切った美しさを湛えている。一切の虚飾を排し、単音の旋律と単純な伴奏だけですべてを言い尽くそうとしているかのようだ。このため息をつくようなテーマは、現れるたびに形を変え、刻々と変化しながら音楽は進んでいく。憂いを含んだ音楽だが、微妙にハーモニーが変わるとき、一瞬光が差し込む。
 ヘ長調の副主題は、オクターヴのバスで支えられる穏やかな旋律だが、フォルテとピアノが対比され、ややダイナミックな空間的なひろがりを創り出す。イ長調に転じる愛らしい中間部でも、やはりフォルテとピアノが頻繁に交替する。
 正直申し上げ、この曲を暗譜するのはたいへんむずかしい。ロンドの通例としてロンド主題と副主題が繰り返し現れるが、現れるたびにその姿を変えるからだ。しかもほんの少しずつ変わっていく。モーツァルトがこの名曲をサロンやコンサートなどで弾いときには、間違いなくこのスコアどおりではなかったことだろう。作曲したモーツァルト自身が、今日残されているスコアを暗譜し、毎回そのとおりに覚え込んでテープレコーダーを回すように弾いたとは思えないからだ。今日残されているスコアは、モーツァルトが弾いたであろうひとつのパターンであると思われるが、現代の演奏者がモーツァルトに成り代わることが出来ない以上、を、ひとつの音符も間違えないように暗譜して弾くことが、私たちの宿命だろう。それでもこの作品を弾くことはそれ自体とても大きな喜びであり、ピアノを弾くことの幸せを教えてくれる。また、例外的にモーツァルト自身による装飾法がきちんと書き込まれているこのロンドを究めることは、モーツァルト自身の装飾法を知る上でとても参考になる。
 
この曲を書いた直後、モーツァルトは、故郷ザルツブルクで病床にあった父レオポルトにこう書き送っている。

「死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標なのですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました」(1787年4月4日)(白水社 モーツァルト書簡全集VI)

 この手紙を書いたとき、モーツァルトは31歳。まだ人生これからという年齢だが、このとき、モーツァルトの命はあと4年余りしか残されていなかった。この手紙からは、死が次第に身近なものとなっている、自分に近づいてきているということを感じ始めていたようにも感じられる。そのようなこの時期のモーツァルトの心象風景は、この作品に投影されているように思う。
 

モーツァルト :フランスの歌曲「ああ、お母さん、聞いて下さい」による12の変奏曲 ハ長調 KV265
 テーマと12の変奏からなる。このテーマは、もともとは、1760年頃からパリで歌われていたフランス民謡「ああ、お母さん、あなたにお話をしましょう」( Ah,vous dirai-je, maman )だが、19世になるとイギリスやアメリカで“Twinkle, twinkle, little star”という歌詞で歌われるようになり、日本に入ってきて「キラキラ星」という題名で親しまれるようになった。このモーツァルトの変奏曲も「キラキラ星変奏曲」と呼ばれることも多い。
 こうした経緯から、以前は、モーツァルトがパリに滞在していた1777年か78年の作品とされていたが、その後の自筆譜の分析により、現在では、モーツァルトがウィーンに移り住んで間もない1781年か82年に作曲されたのではないかと考えられている。その後、1785年にウィーンのトリチェッラからり出版され、アウエルンハンマー嬢に献呈されている。
 テーマは、ハ長調、4分の2拍子で、二つの部分からなり、それぞれ反復される。変奏は、テーマの音型を、16分音符、3連符に分割しながら進み、第5変奏ではテーマをさらに休符を使いながら断片化させ、第7変奏では、めまぐるしいスケールに変化させる。第8変奏ではハ短調となって気分を変え、第10変奏では、華やかに両手が交差する。モーツァルトの変奏曲では、最後から二番目の変奏がゆっくりとしたテンポをとることが多いが、この曲でも第11変奏でアダージョになり、第12変奏は、4分の3拍子のアレグロになって、テーマは回帰することなく華やかに曲を閉じる。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 KV309

 1777年10月か11月、旅先のマンハイム(下の写真はマンハイムの宮殿)で作曲された。昨年のリサイタルで弾かせていただいた、ニ長調KV311と対になる作品で、ほぼ同じ頃に作曲されたと考えられている。
 マンハイムの宮殿1777年9月、21歳のモーツァルトはザルツブルクのオルガニストの職を辞し、母マリア・アンナとともに新天地を求める旅に出た。この旅は結果的には、どこの宮廷でも職にありつけず、手痛い失恋を味わい、パリでは母を亡くすという悲劇的な結末を迎えることになる。モーツァルトにとっては大きな試練の旅となるのだが、旅行の初期に立ち寄ったマンハイムでは、解放感にひたった。
 マンハイムのプファルツ選帝侯カール・テオドールの宮廷には、優秀で知られたオーケストラがあり、たくさんの音楽家が召し抱えられていたが、このマンハイム音楽の中心人物がクリスティアン・カンナビッヒだった。ヴァイオリニストでフルート奏者だが、とりわけ指揮者としての名声は鳴り響いており、多くのシンフォニー、室内楽曲を作曲していた。
 モーツァルトはカンナビッヒの家でお世話になる。そしてモーツァルトがカンナビッヒの娘ローザのために作曲したのがK309のソナタである。
 モーツァルトは、1777年11月14日づけの手紙で、「カンナビッヒ嬢のために書いたソナタは、できるだけ早く小さな紙に写させて、お姉さんに送りましょう。3日前から、ローザ嬢にソナタを教え始めました」と書き、11月29日には、「ぼくがカンナビッヒ嬢のために書いたソナタのアレグロとアンダンテをお姉さん宛に同封します。ロンドーはつぎの便で送ります。みんな一緒に送ると、重たくなりすぎるでしょう」と書き送っているから、このソナタは、この頃に作曲されたことになる。
 このK309のソナタは、とにかくとても楽しい、明るい雰囲気を持っている。そしてこのソナタを作曲していたとき、作曲者自身も楽しげにはしゃいでいた。モーツァルトはレオポルドに次のように書き送っている。カンナビッヒ邸での馬鹿騒ぎの様子が生き生きと伝わってくるようだ。

「私こと・・・モーツァルトは、(以前にもたびたび)深夜12時に帰宅いたし、しかも、10時より前記の時刻まで、カンナビッヒの家で、カンナビッヒ、同夫人と令嬢、財務長官殿、ラム、ラング氏らの面前で、ともどもに、しばしば、しかも ― いやいやでなくて、まったく浮き浮きと、それもただただ落ちる雷、つまり、ウンコとか、クソたれとか、シリナメとかで語呂遊びをいたしましたことの罪状をここに告白いたします」((1777年11月14日)(白水社 モーツァルト書簡全集V)

 K309の第1楽章を弾いていると、私には、カンナビッヒ邸で猥談に花を咲かせ、父親をからかっているモーツァルトの嬉々とした姿が彷彿としてくるような気がする。ストレートな喜びに満ち、楽しげな解放感に溢れている。
 この第1主題は、はじめの2小節がフォルテで、そして第3小節からピアノになり、これが5小節続く。この開始はまさにシンフォニーの開始だろう。フォルテの2小節は、オーケストラのトゥッティ(総奏)で、すべての楽器によって高らかに音が鳴らされる。しかしすぐに管は沈黙し、ヴァイオリンを中心とした弦楽器だけになってピアノで奏される。第一ヴァイオリンがメロディーを奏でる中、第2ヴァイオリンが伴奏を受け持つ、といったところだろうか。フォルテが2小節、ピアノが5小節というアンバランスな組み合わせは、トゥッティがすぐ終わることで、対比がむしろ強調されるという効果をねらっている。
 モーツァルトの手紙によれば、第2楽章アンダンテは、カンナビッヒの娘ローザをイメージして作曲されたという。彼女は当時15歳。とても美しく、感じのいいお嬢さんだったらしい。そして年齢のわりに非常にかしこく、落ち着いていて、真面目で、口数が少なかった、とモーツァルトは褒めちぎっている。モーツァルトは、3つの楽章の中でこのアンダンテの楽章が一番苦労するでしょう、と書き残している。それは「表情に溢れていて、譜面通りのフォルテとピアノで、趣味よく、的確に弾かなくてはなりません」とも付け加えている。この楽章は、とても愛らしいテーマに始まる二重変奏曲になっている。
 第3楽章は、優雅なロンド。一点の曇りもなく、流れるように音楽は進んで行くが、一種の茶目っ気も感じられる、微笑ましい楽章である。

ムソルグスキー  :組曲「展覧会の絵」

ムソルグスキー モデスト・ムソルグスキー(1839 - 81)は、チャイコフスキーとほぼ同じ時代を生きたが、チャイコフスキーとは異なり、生前、世の中に認められることはなかった。その肖像画(右の絵)を見ると、顔が赤みがかってむくんでいる。ムソルグスキーは、晩年アルコールに溺れ、誰にも看取られず、失意のうちに世を去った。
 不遇な人生を送ったムソルグスキーの、数少ない理解者の一人だったのが、画家であり、建築家であった、ヴィクトール・ハルトマン(1834 - 73)だった。この「展覧会の絵」は、ハルトマンが若くして亡くなり、彼の遺作展に行った、その印象をもとにしてつくった作品である。10曲から出来ているが、それぞれの曲は、遺作展の中で特に印象に残った10組の絵に対応しているといわれている。近年における調査を含め、これまでの調査により、10曲と関連のある絵が見つかっている。
 また、この組曲の特徴として、10曲以外にプロムナードが数回挿入されている。冒頭のプロムナードのテーマは、これから展覧会場に入っていくという足取りと期待を表すような印象を与えるが、このプロムナードはそれぞれの箇所で、形が変わったり、雰囲気が違ったりして登場する。これは、それぞれの絵を見て、次の絵に移るときのムソルグスキー自身の気持ちを表しているとも言われている。
 第1曲「グノーム」に関しては、近年の調査で、ロシアのおとぎ話に出てくるこびとの絵が見つかっている。地の底に住んでいて、グロテスクに歩き回るキャラクター。
 第2曲「古城」。近年の調査で、古いお城を描いた絵が3枚見つかっている。ハルトマンの遺作展を主宰した美術評論家、スターソフが書き残したところによれば、「中世風のお城、その前で一人の年老いた吟遊詩人が歌っている」と書かれているが、3枚の中の1枚には人影が見えている。寂しい吟遊詩人の歌が聞こえてくるような曲。
 第3曲「テュイルリィーの庭」のスコアには、「遊びの後の子供たちの喧嘩」というサブタイトルが付いている。近年の調査では、ハルトマンがパリのテュイルリー公園を訪れたときに描いた2枚のスケッチが見つかっている。子供が描かれているのだが、庭もなければ、喧嘩をしている風にも見えない。ムソルグスキーの曲の感じでは、大勢の子供たちが賑やかに騒いでいるイメージなので、この絵の感じとはちょっと距離があるような気がする。
 第4曲は「ビドロ」。ビドロは、ポーランド語で牛、家畜、という意味の言葉。これまでこの曲については、「ポーランドの牛がゆっくり一輪車をひいている様子」というものだった。このビドロ=牛車を表すような絵は見つかってはいなかったのだが、近年の調査では従来の想像とは全く異なる、衝撃的な絵が見つかった。それは、ポーランドで書かれた、「ポーランドの反乱」というスケッチ。教会があって、手前にはギロチンが見える。民族解放運動の敗北の末に処刑されている人々、その前に立っている兵士たち。この絵のイメージを重視すると、この曲には、に重々しい苦しみ、怒りが含まれているということになるだろう。この絵が発見されるだいぶ前のことだが、作曲家の間宮芳生先生が大学の授業の中で、「このビドロという曲は、奴隷労働をさせられている虐げられた民衆の労働の歌である。だから、こんなに重苦しいんだ」と説明されていたことを思い出す。
 この曲の後のプロムナードは、限りなく悲しいメロディーになっている。亡くなった人への悲しみ、鎮魂の想いが溢れていくかのようだ。
 第5曲「卵の殻をつけたひなどりのバレー」では、打って変わって可愛い世界が出現する。関連する絵は以前から存在していたもので、バレーでの衣装のためのデッサン。軽くて可憐で、いとおしいもの、生まれたばかりの雛鳥だ。
 第6曲「サミュエル・ゴールデンベルグとシュミーレ」。 これも以前から知られていた絵で、二人のユダヤ人が描かれている。一人は大金持ち、もう一人は、貧しいユダヤ人。最初に、大金持ちのユダヤ人を思わせるテーマが毅然と、そして傲慢な雰囲気で登場した後、貧しいユダヤを思わせるテーマが、まるで寒さに震えながら物乞いをしているかのように出てくる。そして、この物乞いの声を打ち消すかのように、大金持ちの声が大きくなっていくが、終わりは貧しいユダヤ人の泣き歌と「みてろよ」という捨てぜりふを思わせる音型で閉じられる。
 第7曲「リモージュの市場」の関連では、近年の調査で、フランスで描かれた14枚のスケッチが見つかっている。いずれもフランスの庶民の生活の様子が描かれていて、ムソルグスキーがスコアに書き込んでいる「女たちが市場でとっくみあいの喧嘩をしている」というメモにぴったり符合する場面も入っている。そして、この騒がしい日常の世界から突然場面は転換し、死後の世界、第8曲「カタコンブ」に入る。
 この曲に関連する絵は、以前からパリの地下墓地を描いた絵が知られていた。絵の中には、カンテラを持っているハルトマン自身の姿も描かれている。絵の右手の方に沢山の頭蓋骨が見える。曲の後半には、「死者とともに死者の言葉をもって」というサブタイトルがついているが、そこではプロムナードのメロディーが悲しく流れる。そして次第に光が射し込んでくるかのように安らぎの世界に入っていく。この曲の中で、死の世界に旅立ったハルトマンへの想いを表現し、ハルトマンと対話しているようにも聞こえる。
 いよいよ曲も大詰めになってくるが、ここで再びロシアのおとぎ話の登場人物が出てくる。第9曲「バーバ・ヤーガ」は、箒で子供を食べてしまう、人喰い魔女。以前から時計のデッサンの絵が残されており、この時計が、鶏の足の上の上に立っているバーバ・ヤーガの小屋のデザインになっている。
 そして第10曲、終曲は、「キエフのボガティル門」。ロシアの大地からわき起こって来るかのような、スケールの大きな、堂々とした迫力で曲を閉じる。この絵はキエフの黄金の門の再建のためのデッサンとして描かれた。この建築が日の目を見ることはなかったが、ハルトマンのこのデッサンは、ムソルグスキーの音楽によって永遠に後世に伝えられることになった。
 ムソルグスキーとハルトマンが生きた当時のロシアは大変暗い世相だった。人々は貧困にあえぎ、爆弾テロや暗殺事件が相次いでいた。この二人の芸術家には、ロシアはこんなはずではない、もっと大きく、そして美しい存在のはずだという想いがあったのではないかと思う。ハルトマンの絵、そしてムソルグスキーの「展覧会の絵」に込められているのは、ロシアへの熱い想いなのではないだろうか。
 私は、十数年前、ハルトマンの絵をご覧いただきながら、「展覧会の絵」を弾かせていただいたことがある。またそのような機会を持ちたいと願っているが、今回は、ムソルグスキーの音楽のみから、ハルトマンの絵にも想いを馳せていただけるような演奏にしたいと思っている。

2006.4.22 へ