アウグスブルク 1

1763.6.22 - 7.6

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モーツァルトの旅 1
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帝国自由都市
モーツァルト一家は、ミュンヘンを経て、6月22日、レオポルトの故郷アウグスブルクに到着しました。
アウグスブルクは歴史の古い街で、その起源は古代ローマ帝国皇帝アウグストゥスの時代にまで遡るとも言われます。交通の要衝で、商業都市として栄えてきました。
13世紀には、皇帝や国王、選帝侯の支配を受けない自由都市となり,とくに、15〜16世紀 には、鉱山業で財を成したフッガー一族など大商人が輩出しています。
現在は、人口約26万人で、ミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市となっています。中世に起源を持つ街並みが大切に保存されています。

父レオポルトの生まれ故郷
モーツァルトの父、レオポルド・モーツァルトは、このアウグスブルクで、1719年に生まれました。
下は、ルネッサンス建築の傑作といわれる市庁舎とベルラッハ塔ですが、この佇まいは、レオポルドが生まれた当時から変わっていないでしょう。



レオポルドの父親は製本業者でした。モーツァルトの家系は、製本のほか、建築師、彫像師などの職人を輩出していた一族でした。1727年、レオポルドはイエズス会のギムナジウムに入学します。イエズス会は16世紀の初めに創設されたカトリックの修道会で、プロテスタントに対抗してカトリック協会内部の改革を目指していました。
その経営する学校の教育水準は高く、レオポルドは神学のほか、ラテン語、歴史、古典、修辞学などを学びました。ギムナジウムを優秀な成績で卒業したレオポルドは、さらに附属のリュケーウムに進み、論理学と物理学を学びます。
アウグスブルクは南ドイツのおける音楽の一つの中心でした。イタリア・オペラの上演が盛んに行われていましたし、イタリアの器楽音楽も盛んに演奏されました。例えば、パドヴァ出身の作曲家、ヴァイオリニストであったジュゼッペ・アントニオ・パガネッリは、23歳のときにアウグスブルクでデビューしています。
レオポルドは音楽に才能を示しました。大聖堂の合唱隊のメンバーでもあり、またヴァイオリンを巧みに演奏しました。アウグスブルクには新教徒も沢山住んでいましたので、レオポルドはプロテスタントの教会音楽にも身近に接することができました。アウグスブルクには高名なクラヴィーア制作者であったヨハン・アンドレアス・シュタインが居ましたが、シュタインはルター派新教徒でした。
1737年、18歳のレオポルドはアウグスブルクからザルツブルクに移り住み、ベネディクト修道院が経営する大学に入学します。レオポルドがなぜアウグスブルクを後にしてザルツブルクの大学に入学したのかは明らかではありませんが、一種の家出に近かったようです。
レオポルト、モーツァルト、ナンネルのコンサートは、アウグスブルクで成功を収めますが、聴きに来たのは、新教徒ばかりだった、とレオポルトは書き残しています。たくさんいたモーツァルト一族の中で、レオポルトとつきあったのは、弟のアロイスの家族だけで、レオポルトと母親の関係はとくに冷たかったようです。

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