ザルツブルク 3

1766.11.19 - 1767.9.11  

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
ザルツブルク 3
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ザルツブルク 4
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モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
少年作曲家
こうして、モーツァルト一家は4年近い大旅行を終えてザルツブルクに戻りました。
ザルツブルクの支配者は、大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach 1698 - 1771)でした。モーツァルトは まだ10歳の子供でしたが、シュラッテンバッハ大司教を含め、ザルツブルクの人々から一目置かれる作曲家であり、演奏家でした。
モーツァルト一家がザルツブルクに滞在するのは、次のウィーン旅行までの1年足らずですが、この間にも、少年作曲家による作品が生まれています。
モーツァルト最初の劇音楽となるのが、ラテン語喜劇《アポロとヒアチントゥス》で、1767年5月13日、ベネディクト派大学で初演されています。
またこれに先立つ3月12日に初演された宗教的ジングシュピール《第一戒律の責務》は三部で構成され、その作曲者は、第1部がモーツァルト、第2部がミヒャエル・ハイドン、第3部がアードルガッサーでした。
当時、音楽が奏された主な場所としては、ミサなどの宗教行事の中心である大聖堂、賓客を招いてのコンサートも開かれた大司教館(レジデンツ)(下の写真)、劇音楽がしばしば演じられたベネディクト派大学などが挙げられます。



ミラベル宮殿

ザルツブルクでも重要なコンサート会場のひとつが、ミラベル宮殿(右の写真)でした。この館を建てたのは、大司教ヴォルフ・ディートリ・フォン・ライテナウ(Wolf Dietrich von Raitenau  1559 ? - 1617)でした。

アンリ・ゲオンは、『モーツァルトとの散歩』の中で、ディートリヒについて次のように記しています。

「ヴォルフ・ディートリヒができるかぎりのものを壊して、道をまっすぐ引き、広場を広くし、ユリウス2世やレオ10世に匹敵する宮殿を建てさせ、修道者たちのためには巨大な修道院を、馬のためには豪華な厩舎を命じ、大聖堂で大司教としての式祭を心ゆくまで行ないたいと考えたのも、結局、彼が当時の流行にあわない住居に我慢できなかったからである。幸い聖堂は燃えた。彼は放火の疑いをかけられたが、それはあまりにも酷と言うものだろう。彼はすぐにお抱えの建築家スカモッツィをイタリアから招き、ローマの聖ペテロの設計図よりほんのわずかの縮尺で再建するように頼んだ ― それはその通りに着手された。だがその傑作のなかで彼が勝ちほこる日を神はあたえなかった。それを完成したのは彼の後継者である。だがヴォルフ・ディートリヒは、ザルツブルクの商人の娘である愛人ザーロメ・アルトのために、のちにミラベル宮(フランス語ですももの意)とも呼ばれた華麗な城を建てて自らを慰めた。かつての絢爛さはやや減じたとは言え、まさにその宮殿へ、はからずも私は泊ったのである。ザーロメが大司教公に12人の子供を生んだことが、せめてもの救いであろうか。」

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