ザルツブルク 5

1771.3.28 - 8.13

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
イタリアでの成功
1771年3月28日、モーツァルト父子は、教会の丸屋根が天に向かって立ち並んでいる故郷ザルツブルクに戻ってきました。
イタリア旅行はレオポルトのとり成功だったと言えます。彼は、息子にイタリアでオペラを作曲させ、上演したいと熱望していましたが、その願いは早くも現実のものとなりました。1770年12月、モーツァルトは、ミラノでオペラ《ポントの王ミトリダーテ》の上演を成功させることができたからです。
さらに、帰路に立ち寄ったヴェネツィアで、レオポルトは、もう1通の契約書にサインしています。これは翌々年のミラノでの謝肉祭シーズンのためにオペラを作曲するものでした。モーツァルト父子はこの契約に基づき、第3回イタリア旅行を敢行することになります。
ザルツブルクへの帰路を急ぐレオポルトを追いかけるかのように、ミラノから別のオペラの注文が届きました。レオポルトはこの注文をヴェロナで受け取るのですが、その内容はミラノの総督フェルディナント大公とモデナ公国の王女との婚礼に当たって上演される祝典劇でした。婚礼の時期はこの年の10月。モーツァルトはこの仕事を引き受け、翌々年の謝肉祭シーズンの前にさらにもう一度ミラノに赴くことになったのです。
イタリア旅行からザルツブルクに帰還したレオポルトは、おそらくは、疲れた体をベッドで休めながらもすっかり舞い上がっていたことでしょう。事実上の国王と王女の結婚式に上演される祝典劇は、当時のミュージシャンとしてはひじょうに名誉なことだったからです。
宗教作品などを作曲
モーツァルトは、10月にイタリアに出発するまでの間に、オラトリオ《解放されたベトゥーリア》KV118(74c)、童貞、聖母マリアの祝日のためのリタニア( Litaniae de Beata Maria Virgine) 変ロ長調 KV109 (74e)などの宗教作品、 交響曲ヘ長調)KV112、 交響曲ト長調KV110 (75b)などを 作曲しています。
第2回のイタリア旅行に対しては、ザルツブルクの宮廷は、冷ややかだった形跡があります。旅行中レオポルドは、副楽長の給料を差し止められているからです。
シュラッテンバッハ大司教はすでに病の床にあり、ザルツブルクの宮廷は、ザウラウ伯爵などの司教座参事会の高位聖職者たちが取り仕切っていたと思われますが、彼らの中には、モーツァルト一家に必ずしも好感を持っていない人々もいたのでしょう。度重なるモーツァルト父子の旅行は、宮廷への忠誠心に疑いをさしはさんだようです。
現在のレジデンツ広場は、当時、高位聖職者たちが聖俗の両方の世界を支配する中心でした。


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