ザルツブルク 11

1783.7.28? - 10.27

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
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ザルツブルク 11
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聖ペテロ教会
モーツァルトは、ヨーゼフ2世治世下のウィーンで、オペラ作曲家、さまざまなジャンルの器楽音楽の作曲家、クラヴィーア奏者として確実な地歩を築きつつありました。父親や姉の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚したモーツァルトは、和解の気持ちもあったのだろうと思いますが、1783年7月末、かねてから計画していた故郷ザルツブルクへの里帰りを実現させました。
ザルツブルクのコロレド大司教と喧嘩別れしていたモーツァルトは、ザルツブルクに帰ると大司教に逮捕されるのではないかと怖れもしていましたが、大司教は完全にモーツァルトの帰郷を黙殺しました。
ザルツブルクでの滞在は、10月末までの約3ヶ月でした。この間モーツァルトは旧友たちと再会し、射的を楽しんだりして楽しい日々を過ごしたといいます。



10月26日、聖ペテロ教会(上の写真)において、モーツァルト自作の《ミサ曲 ハ短調K427》が奏されました。モーツァルト自身が指揮し、ソプラノのソロは妻コンスタンツェが歌い、ザルツブルクの宮廷楽団が演奏しました。
最後のザルツブルク
モーツァルトのザルツブルク帰郷の様子がどんなものであったのかはよくわかりません。しかし、結果的に、これがモーツァルトとザルツブルクとの別れとなりました。
モーツァルト夫妻と父、姉は、結局心からうち解けず、一種のわだかまりを残したまま、モーツァルトはザルツブルクを後にしたという説が有力です。
この後、姉ナンネルとも二度と顔を会わせることはありませんでした。4年後にレオポルドが亡くなり、葬儀が行われたときも、モーツァルトはザルツブルクに戻ることはありませんでした。
後のことになりますが、妻コンスタンツェは、モーツァルトがウィーンで35歳で亡くなった後、デンマークの外交官ニッセン(左の肖像画)と再婚します。ニッセンは、本格的なモーツァルトの伝記を執筆しました。ニッセンとコンスタンツェは、ザルツブルクに移り住みます。
そして、コンスタンツェは、ニッセン没後、晩年をザルツブルクに暮らし、1842年、80歳の長寿を全うしました。
一方、姉のナンネルは、夫の死後ザルツブルクに戻り、1829年にこの懐かしい故郷で78歳の生涯を終えました。ナンネルは、聖ペテロ教会の附属墓地で静かに眠っています。

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