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- 《魔笛》の成功
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プラハから戻ったモーツァルトは、ふたたび《魔笛》の作曲に取り組み、9月28日には序曲を完成させています。この序曲にはどういうわけか、クレメンティのソナタのテーマが使われています。
《魔笛》は、1791年9月30日、アウフ・デア・ヴィーデン劇場で初演されました。左は、《魔笛》の上演を知らせる当時のチラシです。
パパゲーノは、シカネーダー自身が歌いました。夜の女王を歌ったのは、コンスタンツェの姉であるヨゼーファ・ホーファー、王子タミーノは、ベネディックト・シャック など、主要な出演者はモーツァルトがよく知っている人ばかりでした。
初演は、それほどの成功ではありませんでしたが、回を重ねるたびに人気は高まっていきました。モーツァルトがバーデンに滞在中の妻コンステタンツェに書き送ったところによれば、連日、超満員だったようです。《魔笛》の成功により、モーツァルトもシカネーダーも多額の報酬を手にしました。
モーツァルトは宮廷楽長のサリエリを《魔笛》の上演に案内しますが、サリエリはブラヴォーを連発したとモーツァルトは書き残しています。
- 最後の手紙 ― サリエリを招待
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モーツァルトは、おそらくはいろいろな感情を抱いていたであろう宮廷楽長アントニオ・サリエリ(左の肖像画)を《魔笛》に招待しています。
以下は、コンスタンツェに宛てた手紙の一部です。
この手紙が、モーツァルトが残した最後の手紙となりました。
「きのう、13日の木曜日、ホーファーはぼくを連れ出してカールのところへ行った。そこでぼくらは昼食をとってから、みんなでヴィーンに戻った。6時にぼくは、馬車でサリエーリとカヴァリェーリ夫人を迎えに行って、桟敷席に案内した。
― それから急いでホーファーのところに、その間待たせておいたママとカールを迎えに行った。サリエーりたちがどんなに愛想がよかったか、きみには想像もつかないだろう。
― 二人とも、ただぼくの音楽だけではなく、台本も何もかもひっくるめていかに気に入ってくれたことか。 ― 彼らは口をそろえて言っていた。「これこそオペラ〔オペローネ〕だ。
― 最大の祝祭で、最高の王侯君主を前に上演されて恥ずかしくないものだ。 ― きっとまたなんどか観に来よう。こんなにすばらしい、気持よい出し物は見たことがないので。」
―
彼は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、「ブラヴォー」とか「美しい」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。そしてぼくの好意に対して、いつまでも繰り返しお礼を言っていた。彼らはきのうぜひオペラに来たいと思っていたそうだが、なにしろ4時にはもう座席に坐っていなくてはならなかったからね。
― そこできょうは、桟敷席で落ち着いて観たり聴いたりできたというわけだ。 ― 劇場がはねたあと、二人を家まで馬車で送り届けさせて、ぼくはカールと一緒にホーファーのところで食事をした。
― それからカールを連れて家に戻り、ふたりともぐっすり眠った。(以下略)」(1791年10月14日付けの手紙)
- モーツァルトの死
- サリエリを食事に招待したりするモーツァルトの姿を想像していますと、《魔笛》の上演のころのモーツァルトは、気力も体力も充実していたように思えます。10月には、不滅の名曲、クラリネット協奏曲イ長調
KV622が完成されています。
その死は突然やってきました。11月20日、モーツァルトは病の床につきます。両手、両足の関節が膨れ上がり、寝返りも打てない状態になったと伝えられています。
病床では、伝説に彩られているように、レクイエムの作曲が続けられました。右は、その様子を描いた、後世の絵です。
1791年12月5日未明、モーツァルトは、妻コンスタンツェ、その妹のゾフィー、そして主治医のクロセット医師に看取られて、36年に満たない、短い生涯を閉じました。
モーツァルトの葬儀は聖シュテファン大聖堂で行われましたが、誰が出席したのかはわかっていません。よく知られているとおり、誰もマルクス墓地での埋葬に立ち会うことはありませんでした。
(完)
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