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- ベルリンのバッハ
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach 1714 - 88)は、大バッハ、ヨハン・セバスチャン・バッハの第5子で、ライプツィヒの大学で法律と哲学を学んだ後、プロイセン王国の王子フリードリヒの音楽教師になりました。1740年、フリードリヒが国王に即位すると、26歳のエマヌエルは即位した国王フリードリヒ大王の音楽教師兼チェンバリストとなり、28年間その地位にありました。
大王は、多くの戦争をしかけ、国力の増強に努めましたが、音楽も愛好しました。サンスーシ宮殿では、毎夜のようにコンサートが開かれ、エマヌエルは、フルートを吹くフリードリヒ大王の伴奏をしました。
1763年、フリードリヒ大王が仕掛けた7年戦争が終わりましたが、外国の軍隊に占領されたりして、ベルリンは荒廃していました。1767年、ハンブルクの音楽監督のテレマンが亡くなるとエマヌエルはその後任に応募し、ハンブルクに移り住みました。ハンブルクは、神聖ローマ帝国に直属する自由都市でした。エマヌエルは教会のカントールとして宗教音楽の作曲に勤しみ、またコレギウム・ムジクムの指揮者として活動しました。また、そのクラヴィーアの作品を中心とするエマヌエルの作品は、出版され、ヨーロッパ中で演奏され、大きな影響を与えました。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの作品番号としては、今世紀の初めに Alfred Wotquenne が作成したヴォトケンヌ番号(Wq)と、E.Eugene
Helm が1989年に作成したヘルム番号(H)がよく使われます。
- クラヴィーアのための作品と論文
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの作品の中では、クラヴィーアのためのソナタが重要な位置を占めています。
C.P.E.バッハのソナタは、バロック時代の舞曲とは違い、明らかにまとまりのある、多楽章形式のソナタを志向していました。また、その音楽は、よく「感情過多形式 Empfindung
」と呼ばれるように、かなり緊張感に満ちた情感あふれたものでした。弟のJ.C.バッハの音楽とは対照的に、全身全霊を打ち込んだような音楽をつくりました。
1759年に作曲された「変奏反復付きソナタ集」の中のニ短調のソナタ(Wq.52-2,H.142)をクラビノーヴァで入れてみましたので、お聴きください。
C.P.E.バッハ:クラヴィーア・ソナタ ニ短調 Wq52-2
第1楽章 Allegretto (27KB)
同 第2楽章 Larghetto e sempre piano (29KB)
同 第3楽章 (19KB)
C.P.E.バッハは、クラヴィーア演奏の理論家でもありました。《クラヴィーアの正しい演奏技術についての試論》は、1753年に、第1巻が、1762年に第2巻が出版されました。邦訳も出版されています。(東川清一訳:全音楽譜出版社)
内容は、運指法に始まり、「トリラー」「ターン」「モルデント」「シュライファー」「スナップ」などの装飾音にかなりのページが割かれています。最終章は、「自由なファンタジー」で、即興演奏についての実用的なアドバイスが示されています。
ハンブルクに移り住んでからのクラヴィーア分野での代表作が「通と愛好家のためのロンド付クラヴィーア曲集」で、全6巻からなります。1782年に作曲された第4巻からロンドを1曲入れておきました。
C.P.E.バッハ:「通と愛好家のためのロンド付クラヴィーア・ソナタ」第4集
から ロンド イ長調 Wq58-1 (36KB)
- モーツァルトにとってのC.P.E.バッハ
- C.P.E.バッハの作品は、広くその印刷譜がヨーロッパ中に出回っていましたので、モーツァルト父子は、早くから彼の作品をよく知っていました。とくにレオポルドは、代表作《識者と愛好家のためのソナタ集》に早くから注目し、モーツァルトの作品をこのソナタ集のようにできないか、出版社に掛け合っています
ところが、当のモーツァルトの関心は、子供の頃からJ.C.バッハ(右の肖像画)の方に向いていました。
モーツァルトは、ウィーンに移り住んでから、ようやく本格的にC.P.E.バッハの音楽に触れることになります。きっかけは、ヴァン・スヴィーテン男爵の邸でのコンサートでした。男爵は、オーストリア帝国と敵対していたプロイセン王国の首都ベルリンに赴任して大使をつとめ、そこで、大バッハ、そしてC.P.E.バッハの作品を集めました。ウィーンに戻ってから、それらを披露するコンサートを定期的に開いていました。
その顔ぶれの中にモーツァルトもいました。モーツァルトは、このようにかなり遅くなってからC.P.E.バッハの作品に向き合いました。そして、1789年になってようやく初めてベルリンを訪れるのですが、すでにC.P.E.バッハは、前年世を去っていました。結局モーツァルトは、「ベルリンのバッハ」に直接出会うことはありませんでしたが、その「自由なファンタジー」は、ウィーン時代のモーツァルトの作風に影響を与え、有名なニ短調K397の幻想曲にも反映されていると思います
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