久元祐子 記事

1998−1996

  
掲 載 年
 2010年
 2009年
 2008年
 2007年
 2006年
 2005年
 2004年
 mostlyclassic
 2003年
 2002年
 2000年
 1999年
 1998年
 1997年
 1996年

1998年

書評「モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪」久元祐子著(音楽之友社)  音楽の友 12月号
モーツァルトのクラヴィーア曲という地味なジャンルに新しい光を当てた評伝的な研究である。譜例が随所に掲げられ、各曲のくわしいアナリーゼが展開されているが、けっして堅苦しくはなく、わかりやすい。モーツァルトのピアノ曲を一度でも弾いたことのある人にとって示唆に富み、またそれらを聴き親しんでいるファンも、著者の冴えたセンスと説得力に思わず引きつけられるはずだ。
モーツァルトは少年時代からヨーロッパ各地を楽旅し、さまざまな様式を養分として自分の音楽を太らせてきた。クラヴィーア曲も例外ではない。著者はその影響関係をたんねんに跡づけ、当時の鍵盤楽器の発達と噛み合わせながら、彼のクラヴィーア曲の特質を追究してゆく。彼はさまざまな影響を受けながらも、それらを濁らせることなく、鋭敏な勘の冴えで純なひびきに蒸留させ得た。そこに彼の真の天才性があったと言える。
 それはすでに彼の初期の作品に見られ、著者はその特徴を「音の動きのみを楽しむのではなく、また自分が創った旋律に酔うことなく、広やかな音楽空間を形づくる」と捉えている。つまり彼は幼くして客観的な眼をもち、その怜悧さが彼の音楽に普遍性を与えるファクターになっていったわけだ。
 この客観的な眼は、また著者自身心がけている内的規範でもあって、それはこれまでのほかの研究者の成果を公平に扱おうとする潔癖さとなってあらわれている。もちろんそれはモーツァルトのクラヴィーア曲の評価にも当てはまる。著者は、彼のクラヴィーア曲は独自の完成を遂げるあまり、最後には行き止まりの世界に入っていったとし、よくある大団円的な美化に終わらせていない。これもそのエートスのなせるわざにちがいない。
 この結論部には鋭いひらめきが見られる。しかしこれまでのアナリーゼの緻密な展開にくらべ、ここだけ飛躍気味の観が否めず、それがちょっと惜しい。モーツァルトの交響曲やピアノ協奏曲は晩年になるにつれて、規模の大きさと深化を見せるようになっていったが、クラヴィーア曲はなぜそうならなかったのか。”謎めいている”とか”内在的”という言葉で片づけずに、もっとこの謎に切り込んでほしかった。おそらくそれはソナタ形式の理解の仕方と関係してくると思う。本書ではこの形式のもつ意味は扱われていないけれども、そこから謎を解く糸口が見えてきたかもしれない。 (喜多尾道冬)

書評欄あとがきのあと「モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪」  日本経済新聞 9月20日
 
「クラヴィーアを初見で弾くなんて、ぼくにとってはウンコをするようなものです。」―冒頭で、いきなりこんな言葉が出てくる。モーツァルトの手紙からの引用だが、「母から『何て品のない書き出し』と怒られました」と当人も、ちょっと恥ずかしそうに笑っている。
 クラヴィーアとは鍵盤(けんばん)楽器の総称。モーツァルトのピアノ曲に的を絞り、その魅力と成立の背景を一般向けにわかりやすく書き下ろした。演奏家は音ですべてを語れ、という声もある中、「文を書くということで頭が整理され、少しでもいい演奏ができるのであれば」という思いから、執筆活動や解説付きのコンサートを行ってきた。
 数あるピアノ曲から、モーツァルトを拾い上げた理由はいくつかある。小さいころ、父が買ったきたレコードでモーツァルトを知り、「何て透き通った世界なのかしら」と驚いて以来、気になって仕方のない存在。やがてピアノを始め、和声を習うようになると「透明さの裏で音をものすごく踏みつけにしたり、大胆な不協和音を使ったりしていて、もう一度びっくりした」という。「いざ弾くと、手に入ったと思っていた音がスルリと逃げてしまう」。そんな神秘性にひかれ、研究へのめり込んでいくさまは、文章からも確実に伝わってくる。
 モーツァルトは手紙好きでオペラには始終ふれるのに、クラヴィーア曲については意外なほど、言葉を残さなかった。「神童時代から演奏して曲を書き続けた楽器だけに余りに日常的だったのかもしれない」と言い、「日常の象徴として『ウンコ』を引用したのですが……」と釈明する。
 

1997年

【演奏批評】レクチャー・リサイタル「モーツァルトの神秘」  音楽の世界 7月24日
97年2月5日   朝日生命ホール 
朝日カルチヤーセンター主催による「モーツァルトの神秘」と銘打たれた珍しいコンサートが行われたので報告しておきたい。
 出演はピアニストの久元祐子である。もともと私が彼女を知ったのは、その演奏ではなく最近刊行された「世紀末の音楽風景」(ムジカノーヴァ発行)という著作によってであった。今日ますます多様化し混迷を深める社会の中で、演奏家は、また聴衆は音楽とどう向かい合っていけぱいいのか。本書は社会学、哲学、心理学についての幅広い勉学の成果をふまえており、多くは問題提起にとどまっているものの、著者の素直な肉声が随所に見られるのが貴重だ。
 さて、この日はモーツァルトの後期の作品を中心としたプログラムであつた(幻想曲ハ短調 KV 475、ソナタハ短調 KV 457、アダージョロ短調K540、ソナタ変ロ長調K570)。
 演奏から察するに、久元はいわゆるテクニシャではない。しかし、多様な響きをそれぞれ丁寧に美しく仕上げていたのは、彼女が心ある演奏者であることを実感させたし、曲の橋構造を見通した上での方向性の明確な表現は、説得力があつた。
 また演奏の合間のトークは、いわゆる学者臭のない簡潔平易なものであった。当時モーツァルトのライバルと目された作曲家サリエリやフリーメイソンとの関係についての諸説が紹介される。途中対比のためにサリエリの曲を弾いたり、演奏しながらヴイーン市街を描いた絵のスライドを舞台後方のスクリーンに映写したりする工夫は興味深かった。

Book ほん 「世紀末の音楽風景」  ―「夢」の喪失と演奏の現在 ―  毎日新聞 1月30日
現実と虚構(バーチャル)がこん然となった現代。その時代、音楽は、「もっと個性を」と求められる。だが、他とは違う「差異」を追ってテクニックに走るほど、内面からにじむ感動を置き去りにしているのでないか。1970年代から80年代にかけ東京芸大でピアノを専攻し、国内外で演奏活動を展開する著者はこう言う。  シューマンらロマン派ピアノ曲に流れる「夢」を点描しながら、芸術的な感動や想像力をかきたてる要素の一つは「夢」と、著者は説く。夢は神秘に彩られ、ときに社会の病理もはらむ。しかし、現実と虚構の境目が失われつつあるいま、自然へのあこがれ、自然と心とのつながりが断たれ、世紀末の音楽をしばしば、「都市空間のけん騒」にしていると嘆く。

プロフィル へ