ピアノフォルテとの出会い 

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ザルツブルクにピアノフォルテがいつ頃入ったのかはよくわかっていません。
ただ、モーツァルトの幼年時代のザルツブルクにピアノフォルテがなかったことは間違いないと思われます。1760年代に入ると、ドイツの各地でピアノフォルテがつくられ始めていたわけですが、それらがザルツブルクにもたらされた可能性は低いようです。
モーツァルトは神童時代にパリ、ロンドンを訪れますが、この時期このふたつの大都市にはすでにピアノフォルテが存在していたと思われます。しかし、モーツァルトがこの新しい楽器に触れたかどうかは記録はなく、何とも言えません。
イタリアから帰ってから、母とともに旅立つまで、モーツァルトはザルツブルクで過ごしますが、この時期にザルツブルクでつくられたクラヴィーア作品の多くは、チェンバロを想定した作風を示しています。
コロレド大司教は、ツヴァイブリュッケンのバウマン(Matthias Christian Baumann 1740 - 1816) が制作したピアノフォルテを購入していますが、この購入の時期はよくわかっていません。
1774年から1775年にかけてモーツァルトはミュンヘンに滞在し、最初のピアノ・ソナタのグループを作曲しますが、これらのソナタは、ピアノフォルテをも想定していた形跡があることは、しばしば指摘されています。
当時ミュンヘンにはかなりピアノフォルテが普及していました。
モーツァルトはすぐあとに出てきますが、シュタインのピアノフォルテを褒めちぎった手紙の中で、「以前はシュペートの楽器が好きでした」と書いているので、ミュンヘンで知った楽器は、レーゲンスブルクのシュペートの楽器だったのかも知れません。

シュタインのピアノフォルテ

モーツァルトがピアノフォルテに本格的に触れるようになったのは、1777年9月に始まるマンハイム・パリ旅行でした。
この旅行の初期、モーツァルトは、父レオポルドの故郷アウグスブルクヨハン・アンドレアス・シュタインの楽器を知ります。そして、これを高く評価する有名な手紙を残しています。

「さて、早速シュタインのピアノ・フォルテから始めなくてはなりません。シュタインの仕事をまだ若干でも見ていないうちは、シュペートのクラヴィーアがぼくの一番 のお気に入りでした。でも今ではシュタインのが優れているのを認めなくてはなりません。レーゲンスブルクのよりも、ダンパーがずっとよくきくからです。強く叩けば、たとえ指を残しておこうと上げようと、ぼくが鳴らした瞬間にその音は消えます。思いのままに鍵に触れても、音は常に一様です。カタカタ鳴ったり、強くなったり弱くなったりすることなく、まったく音が出ないなどということもありません。要するに、すべてが均一の音でできています。そのピアノは、一台三〇〇フローリン以下で売ってくれないのはたしかですが、彼がつぎこんだ苦労と努力はお金で報いられるものではありません。彼の楽器が特にほかのと変わっているのは、エスケープメントがつけられていることです。それについて気を使っているのは、百のメーカーにひとつもありません。しかし、エスケープメントがなければ、ピアノ・フォルテがカタカタ音をたてたり、残響がのこったりしないようにすることはまったく不可能です。彼のハンマーだと、鍵を叩くとき、たとえそのまま指を残しておこうと放そうと、鍵が弦に触れて飛び上がったその瞬間に、また落ちます。」(1777年10月17日付け)

モーツァルトはこの手紙の中で、シュタインのピアノフォルテが優れている点として、ダンパーがよくきき、指を鍵盤上に残しておこうと鍵盤から上げようと、鳴らした瞬間にその音が消えることを挙げています。
思いのままに鍵に触れても、音は常に一様で、すべてが均一の音でできている(es ist alles gleich)と言っています。
このように、シュタインのピアノフォルテの反応が良かったのは、エスケープメント機構(Ausloesung)がつけられていたからでした。エスケープメント機構は、ハンマーが弦を打った瞬間に素早く元の位置に戻るための装置のことで、この装置は、クリストーフォリの楽器に早くもその萌芽が見られますが、1770年代になっても、この装置が備えた楽器はまだ少なかったことがモーツァルトの手紙から窺えます。

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