ピアノフォルテの普及

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ドイツにおけるピアノフォルテの生産

大バッハは1750年に亡くなり、またジルバーマンもまもなく世を去りますが、1750年代に入ると、ジルバーマンの弟子たちを含め、各地のクラヴィーア制作家かちが、ピアノフォルテの制作を競い合うようになりました。
そのひとりはザクセン公国のゲーラ(Gera)で工房を営んでいたフリーデリーツィ(Christian Ernst Friederici 1709-80)です。彼は、ジルバーマンの弟子でした。
レオポルト・モーツァルトは、フリーデリーツィからフリューゲルを買っており、ザルツブルクのモーツァルト家にはモーツァルトが生まれたときからあったフリューゲルは、フリーデリーツィの楽器であったことがわかっています。
フリーデリーツィは、1740年代からピアノフォルテの制作を始めたことがわかっていますが、ザルツブルクのモーツァルト家にもたらされることはありませんでした。
ジルバーマンの兄、アンドレアス・ジルバーマンは、ストラスブールで工房を営んでいましたが、ここで修行を積んだのが、 ヨハン・アンドレアス・シュタイン(Johann Andreas Stein 1728-92)(左の肖像画)です。
シュタインは、レオポルト・モーツァルトの生まれ故郷のアウグスブルク(Augsburg)に工房を開き、ここで本格的なピアノフォルテの生産を開始しました。




ピアノフォルテの広がり

また、ほぼ同じ時期にピアノフォルテの制作を始めたのは、モーツァルトの手紙に出てくるフランツ・ヤーコプ・シュペート(Franz Jacob Spaeth 1714 - 86)で、シュペートの工房は、中南部ドイツのレーゲンスブルク(Regensburg)にありました。
ザルツブルクのコロレド大司教にピアノフォルテを納めたマティアス・クリスティアン・バウマン(Matthias Christian Baumann 1740 - 1816)の工房は、西部ドイツのツヴァイブリュッケンにありました。
ピアノフォルテは、チェンバロのように爪が弦をはじくのではなく、ハンマーが弦を打って音を出す楽器です。爪ではじく方法では鍵盤上のタッチはほとんど弦に伝わりませんが、ハンマーが弦を打つ方法では、演奏者の打鍵の力によって音量が変わり、また鍵盤上のタッチによって音色を変えることができます。
ピアノフォルテでは、個々のキーとハンマーをつなぐ部分は数多くの部品からなる複雑な構造をとっていますが、このハンマー・アクションと呼ばれる構造の大きな目的は、ハンマーが弦を打った瞬間にすぐに元の位置に戻り、次の打鍵に備えるようにすることです。クラヴィーア制作者たちは、同音反復などの細かい音の動きを明確に出せるようにするため、改良に汗を流しました。
ピアノフォルテの登場は、鍵盤上のタッチによって音量の強弱を出すことを可能にし、結果として音量の拡大ももたらしました。

パリへ、ロンドンへ

楽器メーカーが楽器の改良に汗を流すとともに、販路の拡大にも意を用いる、ということは、今も昔も変わらないようです。当時のクラヴィーア制作家たちも、自分の楽器がたくさんの都市や地域、とくに宮廷などで採用されるような努力を怠りませんでした。
音楽学者のウィリアム・S・ニューマンは、アウグスブルクのシュタインは1755年頃にはアウグスブルクでピアノフォルテの制作を始め、1758年には、アウグスブルク出身の音楽家、ヨハン・ゴットフリート・エッカルトを伴ってパリに行ったと考えています。(William S. Newman "The Sonata in the Classic Era" p634)
エッカルトは、パリで成功し、1764年には、「ピアノフォルテのための」と明示されたもっとも早い曲集を出版しますから、パリでは、シュタインのピアノフォルテが持ち込まれたと考えることができます。もちろん、当時ヨーロッパ最大の音楽都市であったパリには、シュタインのほかにも、たくさんのクラヴィーア制作者たちが自慢の楽器を持ち込んでいたことでしょう。
このように、1750年代には、ドイツにおける楽器生産は順調に発展していきましたが、モーツァルトの生まれた1756年に始まった七年戦争は、中部ドイツが主戦場となり、この地方の音楽と楽器生産に大きな打撃を与えました。
ジルバーマンの弟子とも伝えられるヨハネス・ツンペ(Johannes Zumpe  ? - 1783)は戦乱を避けて仲間とともにイギリスに亡命、イギリスでピアノフォルテの制作を始めました。

ロンドンの音楽事情