久元 祐子 ピアノ・リサイタル
2012 年 9 月11 日(火) 19:00 
東京文化会館 小ホール
Program note  

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シューベルト :即興曲 Op.142  第1番 ヘ短調     第2番 変イ長調
                      第3番 変ロ長調   第4番 ヘ短調
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 変ロ長調 KV333

シェーンベルク :6つの小さなピアノ曲 作品19
ベートーヴェン :ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110


<プログラム・ノート>    久元 祐子
 きょうは、2台のベーゼンドルファーを弾かせていただく。
 前半に使用する楽器は1829年ウィーンで制作された。ベーゼンドルファー社は、創始者イグナッツ・ベーゼンドルファーによって1828年にウィーンで創立された。イグナッツ・ベーゼンドルファーは、1794年ウィーン生まれ。この楽器は、イグナッツ自身の手で制作された貴重なもので、最も初期のベーゼンドルファーの楽器、現存する最古のベーゼンドルファーということになる。「ベーゼンドルファーの歴史を守ってください」とのお言葉とともに、4年前、日本ベーゼンドルファーから私のもとにやってきた。
 この楽器は、当初、ピン板がはがれ、音を出すことができない状態だった。それまでの修復過程の中で、弦の張力に耐え切れず、それに持ちこたえることができなかったのである。ピアノの歴史は、ある意味、この張力との戦いでもあり、それによって鋳鉄が採用され、現在の強固なグランドピアノとなっていった。鋳鉄のフレームがないという不安定な状態、魅力的な音色と引き替えに微調整が困難なウィンナーアクション、といったいくつものハードルをクリアしながら、今回、小野哲さんの手で、ベーゼンドルファーの原点とも言えるこの楽器は、「オリジナルに忠実に」というコンセプトのもと修復され、きょうお披露目をさせていただくことになった。



 ベーゼンドルファーという楽器は、強く叩くと音がつぶれて豊かに響かず、逆に力を抜いて楽器に任せると音が良く鳴る、というような天邪鬼なところがある。創始者の手によるこの楽器は、その傾向がとりわけ顕著で、叩いてしまうと途端に全く音が出なくなってしまう。それに加え、同音反復においては、鍵盤を元の位置まで戻さないと次の音を奏することが出来ない機構のため、スピードの制約もある。音域も含め、当時の作曲家たちは、それら楽器の限界ギリギリの世界でもがきながらピアノ芸術を創造していったことを実感する。現代の楽器のスピード、パワー、均一性、安定性、利便性とほど遠く、そのために調整もたいへん難しい。しかし、鋳鉄のフレームへと向かう楽器の進化の中でとりこぼされたかもしれない、こまやかで密やかな息遣い、はかない響きなどは、この時代の楽器によって初めて表現できるような気がする。現代の色眼鏡をはずし、耳を澄ますとき、楽器が教えてくれるものは計りしれない。
 この楽器が作られた前年にシューベルトが亡くなっている。さらにその前年、ベートーヴェンの葬儀がウィーンで盛大に行われ、シューベルトも松明を掲げて参列している。ウィーンのこの時代の響きと香りを再現することができたら、演奏家冥利に尽きると思っている。
 後半に使用する楽器は、現代のベーゼンドルファー・インペリアルで、東京文化会館所蔵のものだ。私はしばしばウィーンのベーゼンドルファー社の工房をお邪魔させていただいているが、現代の楽器も、驚くほど手づくりの工程で制作されている。「ひいおじいさんの代からここで働いているぜ」という職人さんの言葉を聴くとき、永いウィーンの伝統とピアノへの情熱をあらためて感じる。高度な機能性を備えた現代の楽器が大量生産の近代を象徴しているとすれば、ベーゼンドルファーは、草創期のウィーンの伝統を今に伝えている。それは、一台一台異なる個性を持った、職人芸の賜である。ベーゼンドルファーのウィーンナートーンと呼ばれる独特の温かな響きは、当時のウィーンの香りを今に伝えてくれる。
 きょうは、ウィーン縁の楽器を使用することもあり、プログラムは、すべてウィーンで活躍した作曲家の作品とさせていただいた。
 音楽の都ウィーンで活躍した音楽家は数多いが、フランツ・シューベルト(1797 - 1828)は数少ない生粋のウィーンっ子である。シューベルトはベーゼンドルファー社創立の年に31年の短い生涯を終えた。シューベルトの名声は死後まもなく高まり、歌曲を中心に数々の作品が演奏されるようになったが、20世紀に入ってからは、ウィーンでシューベルトの作品が演奏される機会はそう多くなかったと言われる。そのような中にあって、とくにピアノ作品が演奏されるようになったのは、戦後間もない時期にウィーンで学び、演奏活動を開始したアルフレート・ブレンデル(1931-)の功績が大きい。
 シューベルトは、作品90,142のふたつの即興曲集を遺している。シューベルトの数多いピアノ作品の中で、それぞれ4曲ずつから構成される即興曲集は、比較的よく演奏される人気作品である。きょう弾かせていただく作品142の即興曲集は、亡くなる前年の1827年に作曲された。シューベルトは手紙の中で、「ピアノ独奏のための即興曲4曲。これは、4つ別々でも4曲統一しても出版できます」と記している。第3曲は、劇付帯音楽《キプロスの女王ロザムンデ》から取られたテーマと5つの変奏から成り、単独でも演奏される人気作品となっている。
 続いて、ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756−91)の変ロ長調KV333のピアノ・ソナタ。モーツァルトが生まれ故郷ザルツブルクの支配者、コロレド大司教と決裂してウィーンに移り住んだのは、1782年、モーツァルト26歳のときだった。モーツァルトの人気はウィーンですぐに高まり、モーツァルトの真に偉大な作品群の大半は、10年に満たないウィーン時代に作曲された。モーツァルト18曲のピアノ・ソナタの中でも人気の高いハ長調K330、イ長調K331<トルコ行進曲付き>、ヘ長調K332、変ロ長調K333の4曲は、作曲時期を含めよくわかっていないことが多いが、モーツァルトがウィーンに移り住んだばかりの頃につくられたのではないかと考えられている。その中のKV333は、モーツァルトが妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクに里帰りし、ウィーンに戻る帰路に立ち寄ったリンツで作曲されたという説が有力である。このピアノ・ソナタは、同時期につくられたほかの3曲の比べても規模が大きく、充実した作風が際立っている。第3楽章は、ピアノ・コンチェルトのスタイルで書かれ、カデンツァも挿入されており、モーツァルトのピアニズムの才が縦横に繰り出される名曲である。
 時代は一気に130年近く飛んで、アーノルド・シェーンベルク(1874-1951)は、現代音楽の基礎を築いた最大の作曲家である。オーストリアに生まれ、ウィーン、さらにベルリンで活躍したが、ユダヤ人であったこととその進歩的な作風のためにナチスに追われてアメリカに渡り、カリフォルニアを中心に作曲、教育活動を行った。
 「6つの小さなピアノ曲 作品19」は、1911年2月19日に、第1番から第5番までが一気に作曲された。同年5月18日にグスタフ・マーラーが死去し、シェーンベルクはマーラーの埋葬の模様を絵に残している。そして第6曲は、6月17日に作曲された。この曲はほかの曲とは雰囲気が異なっており、マーラーの埋葬の印象がイメージされていると思われる。
 これらの曲は、いかなる調性からも自由であると同時に、一番長い曲で18小節、短い曲で9小節という簡潔なスタイルで書かれている。同時にこの曲を弾いていて感じるのは、無機質な響きではなく、不協和音の中から浮かび上がる不思議な魅力、そして意外にもロマンティックな香りである。シェーンベルクは、同時代の後期ロマン派とはまったく異なるアプローチで、神秘性とロマンティシズムを追求したのではないかとすら思える。
 ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)の変イ長調作品110のピアノ・ソナタは、1821年に作曲された。この曲を書いた頃、ベートーヴェンの耳はほとんど聞こえない状態になっていた。音のない世界で創られたこのソナタは、現世とか現実といったものを超越した世界を表現しているようにも思える。
 第1楽章は弦楽四重奏を思わせるような開始から、トリルを経て、ピアニストのコルトーが「女神が両腕を広げて温かく迎え入れる」と表現した第1主題が来る。空間的に広がりを持つテーマが息の長い旋律で提示される。スケルツォ風の第2楽章に続き、第3楽章に入る。「嘆きの歌」のアダージョで始まり、やがてレチタティーヴォが語られ、詩的なフーガが始まる。この輝きに満ちたフーガは、突然リスッテッソ・テンポ・ディ・アリオーソによって切断され、再び最初のフーガと逆の動きを持つ ― 反行フーガが現れる。現世の喜びを歌い上げる賛歌ではなく、彼岸的なものへと立ちのぼって行くような雰囲気を持っている。最後はフーガ主題がフォルテで高らかに歌い上げられ、最初の調性が戻ってきて全曲が閉じられる。
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