マントヴァ 

1770.1.10 -1.19  

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マントヴァ公国の栄華の記憶
ヴェロナを発ったモーツァルト父子は、1月10日、マントヴァに到着しました。
マントヴァは、三方を湖に囲まれた街で、右の写真は、その一つ、インフェリオーレ湖です。
マントヴァは、14世紀からゴンザーガ家が支配する独立国として栄え、15世紀の終わりには、隣国のフェラーラ公国からイザベラ・デステ(Isabella d'Este Gonzaga 1474 - 1539)を妃に迎え、以後マントヴァ公国は頂点を迎えます。
しかし、18世紀初めのスペイン継承戦争でフランスについたことからオーストリアの攻撃を受け、1707年からオーストリアの支配下に入りました。
右の写真は、ゴンザーガ家のマントヴァ公国の栄華を今に伝える代表的な建物、ドゥカーレ宮殿の庭園です。
この宮殿は、13世紀から数百年かけて建設されてきたといいます。
16世紀から17世紀にかけては、モンテヴェルディが宮廷楽長としてマントヴァの宮廷に仕え、たくさんのマドリガルなどを作曲しています。
モーツァルトは、1月16日、王立アカデミーでコンサートを開いています。このときのプログラムも現存しており、モーツァルトの交響曲、アリア、ヴァイオリン協奏曲、オーボエ協奏曲などさまざまなジャンルの作品が、モーツァルト自身と当 地の音楽家によって演奏されたことがわかりますが、当日の呼び物は、やはり何と言ってもモーツァルトの即興演奏でした。
ハッセのオペラを鑑賞
マントヴァでは、コンサートで拍手喝采を浴びる傍ら、ドイツ人オペラ作曲家の大御所、ヨハン・アドルフ・ハッセ(Johann Adolph Hasse, 1699 - 1783)のオペラ《デメートリオ》を観ています。モーツァルトは、その感想をミラノからザルツブルクに書き送っています。鋭い観察眼が窺えます。

「マントヴァのオペラはすてきでした。『デメートリオ』を上演していました。プリマ・ドンナはよく歌いますが、静止したきりです。演技しないでただ歌っているところだけを見たら、彼女が歌っているとは思えないでしょう。なにしろ、彼女は口を開けられないのですが、どんな音でもひーひーと出します。でも、こういうのは、ぼくらにとって耳新しいものではありません。」(1770年1月26日ミラノにて)

まもなく15歳になろうとしていたモーツァルトの目は、こうして出演していた歌手ひとりひとりに向けられます。
「第二女性歌手はまるで擲弾兵のょうな大女で、声も 力強く、しかも初舞台であるだけに、まったく歌は悪くありません」
「男性第一歌手は、立派な音楽家で、見事に歌いますが、声にむらがあります」
「第二男性歌手はもうお年寄りで、ぼくは好きではありません。・・・歌は悪くありませんが、イタリアのどのテノールにもみられるように、音を厚く持続します」 
道化の踊り手がいて、よく跳びはねていたが、「豚がオシッコするよう」ではなかったとも書いています。

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