ローマ 2 

1770.6.26 - 7.10  

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
ザルツブルク 3
地図
ウィーン 2
ブ ル ノ
ウィーン 3
ザルツブルク 4
地図
インスブルック
ボルツァーノ
ロヴェレート
ヴェロナ1
マントヴァ
クレモナ
ミ ラ ノ 1
パ ル マ
ボローニャ 1
フィレンツェ 1
ロ ー マ 1
ナ ポ リ 1
ロ ー マ 2
ボローニャ 2
ミ ラ ノ 2
ト リ ノ
ヴェネツィア
パドゥヴァ
ヴェロナ 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
ローマへ急行
モーツァルト父子は、6月25日にナポリを発ち、翌26日にはローマに到着しました。大変な強行軍です。
二人が乗った馬車の御者は、たいへん乱暴だったようです。旅程も最後の方にさしかかったとき、鞭で打たれた馬が後ろ足で立ったため馬車は横倒しになり、レオポルトは向こう脛にかなりひどい怪我をしています。
馬車は、猛烈なスピードで突っ走ったようで、4日以上かかる道のりを、僅か27時間で着きました。しかし、この間に眠ったのは僅か2時間だった、とレオポルトは書き残しています。
このように、18世紀後半の当時、馬車による旅は、常に危険と隣り合わせにありました。レオポルトは、イタリア旅行中に書かれた手紙の中で、頻繁に出没する追い剥ぎや強盗のことを触れています。



ローマに到着した二人は、さっそくサン・ピエトロ大聖堂(上の写真)で行われたミサと晩祷を見物しています。
《黄金の軍騎士勲章》
再び訪れたローマで、モーツァルトは、ローマ教皇クレメンス14世(Clemens XIV, 1705 - 1774、ローマ教皇在位:1769 - 1774)、から《黄金の軍騎士勲章》を授与されています。
モーツァルトの後援者、パッラヴィチーニ枢機卿から勲章と賞状を授与され、教皇自身にも拝謁しています。
クレメンス14世は、後にイエズス会解散の詔勅を出したローマ教皇として歴史に名を残しています。レオポルトも後にウィーンでイエズス会解散の様子を細かく書き残しています。レオポルトは、子供の頃イエズス会の学校に通ったことがあり、無関心ではおれなかったことでしょう。
モーツァルト21歳のとき、《黄金の軍騎士勲章》を身につけた肖像画が描かれました。この肖像画は、ボローニャのマルティーニ神父に贈られています。
このとき、、合理主義者のコロレド大司教がミサの時間を縮めたことに対する不満を書き連ねた手紙も書かれていますが、これは、レオポルトの意図によるものだったと考えられています。


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