|
- イタリアへ
- レオポルトは、モーツァルトをかねてからモーツァルトを音楽の本場イタリアに連れて行く計画を立てていたようですが、いよいよ実行に移します。1769年9月には、2回目のウィーン旅行のとき知り合った宮廷作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセに推薦状を頼んでいます。
ドイツ人は長くイタリアに憧れてきましたが、レオポルドにとってのイタリアは、もっと実利的な存在だったようです。イタリア音楽を本格的に学ばせ、出来ればモーツァルトが作曲したオペラをイタリアのどこかの地で上演させることが目的でした。レオポルドのこのような計画を、シュラッテンバッハ大司教は快く許可し、寛大にも旅費まで支給してくれました。
モーツァルトのイタリアへの旅は、周知のように三回にわたっています。
イタリア滞在はモーツァルトにとって13歳から17歳までのかなりの部分を占めます。
18世紀も後半に入った当時、イタリアはなお音楽の先進国でしたが、政治的、社会的には、厳しい状況に置かれていました。
18世紀前半のイタリアは、オーストリア、スペイン、フランスの領土獲得の草刈り場となり、各地方の支配者はめまぐるしく交代しました。複雑な経緯を経て、1748年のアーヘンの和約により確定した支配地図は、この後ナポレオンのイタリア侵入まで維持されることになります。
すなわち女帝マリア・テレジアと夫フランツ1世のオーストリア帝国は、ミラノ、マントヴァ、そしてフィレンツェを中心とするトスカナを支配しました。カルロス3世のスペインはナポリ王国、シシリー島、パルマ、ピアチェンツァを支配しました。フランスのルイ15世は、モディナを保護下に置きました。
このような中にあってサヴォイア家のピエモンテと、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ルッカの三つの共和国、イタリア中部の教皇領だけが外国の支配を免れていました。
1769年12月13日、 レオポルトは、イタリアに向け、ザルツブルクを出発しました。
- ザルツブルクを出発したモーツァルト父子は、ブレンナー峠を越え、ボルツァーノに向かいます。
冬のチロル越えは大変だったと思いますが、馬車の中は暖かく、快適な旅を楽しんだようです。
・1769.12.13 ザルツブルク を出発。
・1769.12.15 インスブルック (Innsbruck) に到着。
・1769.12.19 インスブルック を出発。
・1769.12.20 ブレッサノーネ に到着。
・1769.12.21 ボルツァーノ (Bolzano) に到着。
・1769.12.23 ボルツァーノ を出発。からオーストリアの支配下に入りました。
次 へ
top
|