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- ザルツブルクと最終的に決裂
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1781年3月1日、ウィーンに到着したモーツァルトは、すぐに大司教が逗留していた《ドイッチェス・ハウス》に駆けつけます。
モーツァルトは、料理人などと食卓をともにさせられ、コロレド大司教(下の肖像画)に仕える気持ちは失せていきました。
モーツァルトの大司教側近のアルコ伯爵は、ウィーンの人々の気持ちがいかに移ろいやすいかを語り、モーツァルトが短気を起こさないよう説得しました。
「私を信頼しなさい。きみはヴィーンであまりにも目がくらんでしまった。 ― ここでは、人の名声はほんのわずかしか続かない。 ― 初めのうちは、あらゆる称讃をあつめ、お金も大いに稼げる、これは事実です。
― でも、それがいつまで続くことか? ― 何か月かたてば、ヴィーン人はまた新しいものを望む」
大司教とすさまじいやりとりの末に、モーツァルトはアルコ伯爵に足蹴にされ、部屋を追い出されました。
こうして1781年6月8日、帝国の首都で、モーツァルトの新しい音楽人生が始まります。転がり込んだのは、ウェーバー一家のところでした。
モーツァルトを振った長女のアロイジア・ウェーバーは既に画家のランゲと結婚してこのウィーンで歌手生活をしており、夫に先立たれたウェーバー夫人は、ほかの娘たちを連れて、ミュンヘンからウィーンに移り住んでいました。
「1週間前、使いの者が不意に現れて、ぼくに即刻出て行くように告げたのです。― ほかの連中はみんなあらかじめ日が決められていたのに、ぼくだけはそうでなかったのです。
― そこでぼくは手早くあらゆるものをトランクにまとめました。そして ― ウェーバー老夫人が親切に彼女の家を提供してくれました。 ― きれいな部屋です。ここには世話好きの人たちがいて、ときに急に必要になったり、(ひとりでいると持ち合わせないものがあったり)すると助けてくれます。―
」(1781年5月9日付けの手紙)
モーツァルトはしばらくウェーバー一家の部屋に逗留していましたが、ザルツブルクの父がウェーバー一家によい感情を抱いていないことに配慮したのか、8月には、『ア
ウフ・デム・グラーベン』1175番地に引っ越しています。モーツァルトはすぐにはピアノフォルテを持つことはできなかったようで、借りに出かけたりしていますが、秋が深まる頃には手に入れることができました。
「ぼくのところには一部屋しかありませんし、それも大きくはありません。衣裳箪笥 とテーブルとクラヴィーアでもう一杯で、その上ベッドをもうひとつ置く余裕はとてもありません」(1781年11月17日付けの手紙)
- ウィーンでの活動開始
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ウィーンの主、皇帝ヨーゼフ2世は、モーツァルトのことを既によく知っていたようで、この年のクリスマス・イブにモーツァルトを王宮(ホーフブルク。右の絵)に招き、クレメンティと競演させました。
ウィーンで活動を始めたモーツァルトには、既に上流階級の間に何人かの後援者もおり、モーツァルトがオペラ作曲家として世に出ることが出来るよう、また、サロンなどでの演奏活動ができるよう支えてくれました。
モーツァルトを最も熱心に支援した有力者がヴァン・スヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten 1733-1803)でした。
ベルリンにも滞在したことがあるスヴィーテン男爵は、大バッハやヘンデルの膨大なスコアを持っており、モーツァルトは、男爵のコレクションに触れることができました。
モーツァルトはザルツブルクの父レオポルドにこう報告しています。
「ところで、お願いしようと思っていたのですが、ロンドーを返してくださるとき、ヘンデルの六つのフーガと、エーベルリーンのトッカータとフーガも一緒に送ってください。
― ぼくは毎日曜日、十二時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。 ― そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。 ― ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。ゼバスティアンの作品だけでなく、
エマーヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。 ― それからヘンデルのも。そして、…だけが欠けています。 ― 男爵にはエーベルリーンの作品を聴かせてあげたいのです。
」(1782年4月10日付けの手紙)
- 《後宮からの誘拐》
- ウィーンでのモーツァルトの地位を確固たるものとしたのは、ジングシュピール《後宮からの誘拐 K384》でした。
初演は1782年7月16日。ウィーンにつきものの妨害や野次はありましたが、大成功でした。
ブルク劇場(右の絵)で、この年だけでも12回上演され、オペラ作曲家としてのモーツァルトの名声は不動のものとなりました。器楽音楽の分野でも、次々に輝かしい作品が生まれていきます。中でも、クラヴィーア協奏曲終楽章(ロンド)ニ長調K382、交響曲第35番ニ長調《ハフナー》など、祝祭的で、華やかな気分に溢れている作品が目立ちます。
こうした中、モーツァルトがウェーバー家の次女、コンスタンツェと結婚式を挙げたのは、1782年8月4日のことでした。
明けて1783年3月23日、同じブルク劇場で開催されたコンサートには、皇帝ヨーゼフ2世が臨席。その成功は、モーツァルトのウィーンにおける存在を否応なく印象づけるものとなりました。
このコンサートは、モーツァルト自身の手紙などからそのだいたいの内容を知る ことができ、当時のコンサートの模様がわかる貴重な資料となっています。
1 交響曲 ニ長調 KV385《ハフナー》のいずれかの楽章
2 オペラ《イドメネオ》からアリア1曲(独唱:アロイジア・ランゲ)
3 ピアノ・コンチェルト ハ長調 KV415
4 レチタティーヴォとアリア「哀れな私よ、ここはどこなの? ― ああ、語ってい るのは私ではないの」KV369
(独唱:アダムベルガー)
5 《ポストホルン・セレナーデ》 KV320から第3楽章コンチェルタンテ
6 ピアノ・コンチェルト ニ長調 KV175 と ロンド ニ長調 KV382
7 オペラ《ルチオ・シルラ》からアリア1曲(独唱:タイバー嬢)
8 即興による小さなフーガに続いて、《パイジェルロのオペラ「哲学者気取り、または星の占い師たち」の「主よ幸いあれ」による6つの変奏曲 ヘ長調 KV398》
9 《グルックのジングシュピール「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思う は」による10の変奏曲 ト長調 KV455》
10 レチタティーヴォとロンド「わが憧れの希望よ! ― ああ、あなたには苦しみが どんなかおわかりにならないでしょう」 KV416(独唱:アロイジア・ランゲ)
11 冒頭のハフナ−・シンフォニーの終楽章
ウィーンで名実とも地歩を固めたモーツァルトは、いよいよ大音楽家への道を歩んでいくことになります。
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