ウィーン 6

1787.2.12 - 10.1

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
ウィーン 4
ザルツブルク 11
リ ン ツ
ウィーン 5
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レオポルトの死
プラハからウィーンに戻ったモーツァルトには、忙しい日々が待っていました。1787年2月23日には、《フィガロの結婚》のスザンナ役を最初に歌った、イギリス生まれのソプラノ歌手ナンシー・ストレースを送るコンサートが開かれています。
ストレースは当時ウィーンで最も持てはやされたソプラノ歌手で、類い稀な美人でした。

一方、ザルツブルクの父レオポルド・モーツァルト(右の肖像画)は、コロレド大司教の許可を得て、この年2月にミュンヘンに旅をしています
この旅を終えてザルツブルクに帰ったレオポルは体調を崩し、病状は悪化していきました。
レオポルドが重い病に伏していることを知ったモーツァルトは、4月4日に父宛てに手紙を書いていますが、これがモーツァルトが父に宛てた最後の手紙となりました。
この中でモーツァルトは、死について次のように書いています。

「死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!」(1787年4月4日付けの手紙)。

1787年5月28日、レオポルト・モーツァルトは、娘ナンネルに看取られて68年の生涯を終えました。モーツァルトが父を見舞うためにザルツブルクに赴こうとした形跡はありません。モーツァルトは、父の葬儀に立ち会うこともありませんでした。
《ドン・ジョヴァンニ》の作曲
レオポルト・モーツァルトの死から1月ほど経った6月24日、モーツァルトは、歌曲《夕べの想い》ヘ長調 KV523 を作曲しています。

「はや一日が暮れ、太陽は沈んで、月が銀色の光を投げかけている。
人生の最良の時もこんな風に過ぎ去ってよくのだ。
ダンスに夢中になっていた間に、とでもいった風に。
人生の様々な場面はまもなく消え失せ、舞台には幕が降ろされる。
私達の芝居もこれでおしまい!
そして友人達の涙が、私の墓に降り注ぐだろう」

モーツァルトは、この頃から、オペラオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の作曲にとりかかっていったと考えられます。このオペラは、プラハで《フィガロの結婚》を上演した時、プラハの 興業師ボンディーニから依頼されていたものでした。
台本はダ・ポンテ。スペインの貴族ドン・ジョヴァンニによる騎士長の殺害に始まり、地獄落ちまでを描いています。
真偽のほどはわかりませんが、18世紀を代表する冒険家で作家、そして女性遍歴で知られるジャコモ・カサノヴァ(Giacomo Girolamo Casanova 1725 - 1798)(左の肖像画)が、ダ・ポンテの台本に協力したという説もあります。
カサノヴァはヴェネツィア出身で、ヴェネツィアからウィーンを出てきたダ・ポンテと知り合いでした。カサノヴァもダ・ポンテも、ヴェネツィア共和国政府から追放された経歴は共通しています。《ドン・ジョヴァンニ》のストーリーから言っても楽しい想像です。
守谷明紀さんの小説『カーレンベルクの砦』は、カサノヴァが、モーツァルトとともに、名門貴族の館に代々伝わる秘密に挑むミステリーです。

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