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- 大バッハを追想
- モーツァルトとリヒノフスキー侯爵は、続いてライプツィヒを訪れます。
ライプツィヒは大バッハが1723年から亡くなるまで住んだ、大バッハゆかりの街です。大バッハは、聖トーマス教会(右の写真)のカントールを務め、数多くのカンタータ、《マタイ受難曲》、《ヨハネ受難曲》などの教会音楽を作曲したのでした。
大バッハは、ライプツィヒに来るとすぐに、次男のカール・フィリップ・エマヌエル を聖トーマス教会附属学校に入学させています。また、1735年には、モーツァルトに大きな影響を与えた11番目の息子(18番目の子ども!!)、ヨハン・クリスティアン・バッハが生まれています。
今日ピアノでも弾かれる《平均律クラヴィーア曲集第2巻》、《ゴールドベルク変奏曲》、《アンナ・マクダレーナのための音楽帳》などの作品もこの地で作曲されました。
バッハは、晩年には目の病を患い、視力を失い、1750年、このライプツィヒで世を去りました。
- オルガンを演奏
- ライプツィヒに到着したモーツァルトは、聖トーマス教会でオルガン(右の写真)の即興演奏を行っています。
大バッハの後任に当たるカントール、フリードリッヒ・ドーレス(1715 - 97)、オルガニストのカール・フリードリッヒ・ゲルナー(1742-1802)がモーツァルトの横でオルガンのストップを操作したという記録が残っています。ドーレスは、大バッハに直接師事し、大バッハの音楽を受け継いだ正統な後継者でした。
伝統ある聖トーマス教会附属学校の生徒たちは、モーツァルトのために大バッハのモテトを合唱したと伝えられます。
またライプツィヒでは、ザクセン選帝侯の宮廷オルガニスト、カール・エンゲル(Karl Imanuel Engel 1740? - 1795)のために、クラヴィーアのための小ジーグ
ト長調 KV574 が作曲されました。
ジーグは、大バッハの組曲にもよく出てくる舞曲で、モーツァルトは、この曲を通じ、大バッハへの敬意を表したのではないかとも考えられています。
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