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- フリードリッヒ大王
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4月25日、モーツァルトとリヒノフスキー侯爵は、オーストリア帝国の宿敵、プロイセン王国の宮廷のあるポツダム(Potsdam)に着きました。ポツダムはドイツの首都ベルリンの南西方向、エルベ川の支流ハーフェル川沿いにある街です。現在は、ブランデンブルク州の州都となっています。
プロイセン帝国は、フリードリッヒ2世(大王)(Friedrich II., 1712 - 1786)の時代に強国となり、同じドイツ民族の帝国であるオーストリア帝国を悩まし続けました。
フリードリッヒ大王は、同時に内政の安定に努める一方、啓蒙思想家のヴォルテールを招いてい自ら講義を聴き、また、クヴァンツ からフルートを学んだりしました。
フリードリッヒ大王が建設したのがサンスーシ宮殿(Schloss Sanssouci 右の写真)でした。フランス語で「憂いのない」を意味するこの宮殿は、見晴らしのよい高台にたち、その周囲に大小さまざまの建造物が建てられています。
- サン・スーシ宮殿
- 大王は1786年に亡くなり、モーツァルトが訪れた当時の国王は、大王の跡を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II., 1744 - 1797)(左の肖像画)でした。モーツァルトは、コンスタンツェに、国王がポツダムで自分の来訪を待ちかねていると書き送っていますが、モーツァルトが国王に謁見できたかどうかさえも定かではありません。
ポツダム滞在中に作曲されたとされている作品が、《デュポールの主題による6つの変奏曲》ニ長調 KV573 です。
デュポール(Jean Pierre Duport, 1741-1818)はフランス人のチェリストで、当時のポツダムの宮廷を取り仕切っている音楽監督でした。
モーツァルトは、おそらくこのデュポールの関心を惹こうとしてこの変奏曲をつくったものと思われます。テーマは、デュポールがパリで作曲したチェロ・ソナタの中のメヌエットが使われています。
モーツァルトの変奏曲は、モーツァルトの死後1792年にアルタリア社から出版されています。解説書などでは「名曲」とされることもありますが、私には必ずしもそのようには思えません。
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