ウィーン 8

1789.6.4 - 1790.6 ?

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
ウィーン 4
ザルツブルク 11
リ ン ツ
ウィーン 5
地 図
プ ラ ハ 1
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マインツ 2
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プ ラ ハ 3
ウィーン 11
皇帝の死

ベルリンで得るものが少なかったモーツァルトは、プラハを経由し、1789年6月4日、妻の待つウィーンに戻りました。
しかし、ウィーンの世相は暗かったようです。トルコとの戦争は膠着状態にあり、皇帝ヨーゼフ2世(右の肖像画)も戦線で病を得てウィーンに戻っていました。コンスタンツェの体調も優れず、治療費や転地療養にかかるお金も嵩んでいました。
7月14日にはパリでフランス革命が勃発。皇帝の妹であるフランス王妃マリー・アントワネットの身の上も心配されるようになりました。
こうした世相の中、宮廷もウィーンの人々も音楽どころではなかったようで、コンサートなどの収入も激減していったようです。
モーツァルトとダ・ポンテは、新作のオペラをつくって、皇帝を慰めようとしたようです。これが、《コシ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)》(Cosi fan tutte, ossia La scuola degli amanti)です。このオペラは、1790年1月26日、ブルク劇場でオペラが初演されました。
2組の恋人たち、老哲学者ドン・アルフォンソ、小間使いデスピーナの6人で演じられる、どちらかというとつくりはこじんまりしたオペラです。
しかし作曲のきっかけをつくり、上演を後押ししてくれた皇帝は重い病の床にあり、その姿はありませんでした。
皇帝ヨーゼフ2世の病状は結局回復せず、1790年2月20日、騒然とした世相の中で没しました。そして皇帝の逝去によって上演は中断され、年内の上演は10回にとどまりました。

借金の催促
ヨーゼフ2世の逝去により、弟のトスカナ大公レオポルト(1747 - 92) が、レオポルト2世(LeopoldU)として即位しました。モーツァルトは新皇帝に対して、副楽長として採用してくれるよう請願書を出していますが、省みられることはありませんでした。宮廷は引き続き、宮廷楽長アントニオ・サリエリが取り仕切っていました。
モーツァルトの経済状態は悪化していったようです。こうした中、友人プフベルクへの借金の催促がしきりに行われるようになりました。この年の5月には、次のような悲痛な手紙が送られています。

「最愛、最上の友にして盟友よ! ― とても残念ですが、じかにお話しするために外出することができません。なにせ歯の痛みと頭痛がいまだにひどく、 特にまだつよい病変を感じます。幾人かの良い弟子をというあなたのお考えは私の考えでもあります。ただし、別の住居に移るまでは待ちたいのです。レッスンは、私の自宅でやりたいからです。その間、このプランを少しでもお知 り合いの方がたに知らせてくださるようお願いいたします。 ― 7月、6月、8月の3か月にわたって、自宅で予約演奏会を開きたいとも思っています。それだからこそ現在の状況が切迫しているのです。 ― 引っ越しをするには、新しい住居に275フロリーンを支払わなくてはなりません。 ― 私の演奏会を軌道にのせ、いま書いている四重奏曲を版刻に送り込む前に、やはり私は生活していかなくてはならないのです。 ― したがって、もし私がいま現実 に少なくとも600フロリーンを手にしたら、かなり落ち着いて書けるでしょう。 ― iなんといっても、ああ!心 の安らぎこそそれには必要ですからね。 ― でも、いまいちばんの私の悩みの種は、シュトック・イム・アイゼンの服装店の借金で、初めは店主自身私が支払えないことをよく見抜いていて、待つことに同意してくれていたのですが、 いまや容赦なく執拗に請求してきます。その額は100フロリーンに達します」(1790年5月初めの手紙)

プフベルク(Johann Michael Puchberg 1741 - 1822)は、ウィーンの織物商で、モーツァルトとはフリーメイスンの会員仲間でした。モーツァルトは、生前、借金をプフベルクに返すことはできなかったと考えられています。

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