久元 祐子 ピアノ・リサイタル 2003 年 5 月 31 日 (土) 14:00 東京文化会館 小ホール Program note
昨年のリサイタルで日本初演として弾いたが、CDも出ていない名曲で、もう一度聴きたい、という声をたくさんいただき、今年は、冒頭で弾くことにした。昨年のプログラム・ノートに少し敷衍させていただく。 曲は、変ロ短調、4分の3拍子。 テーマは、 Andante tranquillo。静かな歩みを思わせるメロディは、ラトヴィアの民謡によるもの。ラトヴィアの民謡には、哀しくせつない想いを歌い上げるものが多いが、この曲も3度下降の音程を繰り返す中でメランコリックな息づかいが聞こえてくる。前半は、5小節、5小節、2小節、という変則的なフレーズが独特の香りを醸し出す。後半は、繰り返しがある11小節からなるが、光が見えたかと思うとまた最初の暗く重いメロディに回帰し、静まるように終わる。 第1変奏 Un poco piu mosso は、少し動きとエネルギーが出てくる。動きの単位が4分音符から8分音符になり、軽さが加わる。 第2変奏 Brillante は、3連符になり、優雅な雰囲気の中に、テンポも上がる。水が流れるような自由な動きで、水の輪が広がり、また重なるように流れていく。 第3変奏は、Molto energico。第2変奏からアタッカで切れ目なく入り、力強い3度の重音が跳躍したり、音階的に動いたりしながら、音の厚みを増していく。最後は、 fff まで高まり、ラトヴィアの大地からわき起こるようなエネルギーを爆発させる。 第4変奏 Presto は、打って変わって pp の leggiero に変わり、3連符の和音が休みなく鳴り続ける。中間部は、北国ノルウェーの作曲家グリーグを思わせる音の響きで、森の妖精の踊りと歌が交互に聞こえてくるような変奏。 第5変奏 Sostenuto は、しっとりと音を保ちながら進んでいく。チャイコフスキーのコンチェルトの中に出てくる、アルペジオにばらした和音を連続させる手法なども見られる。 第6変奏は、Con forza。フォルテの和音が1オクターブ上下に跳躍し、力強く繰り返される。ラフマニノフのようなピアニズムで、p そして leggieroに突然変わる中間部の大胆な変化など、ドラマティックな変奏となっている。 第7変奏は、Poco meno mosso。アタッカで入り、バスの執拗な刻みの上にテーマが厚い和音を伴って現れる。途中で希望の光や祈りがこめられたような旋律に変わり、高音域で歌われるが、すぐにもとの暗い和音に戻り、最後は、消えいるように終わる。 第8変奏 Allegrettoは、シューマンの「予言の鳥」の出だしを思い出させるような神秘的な始まり方。pp から ff まで、軽やかな32音符からマルカートの和音まで変化する、起伏に富んだ音楽。 第9変奏は、Allegro molto。両手のユニゾンで不気味に、速いテンポで風のように過ぎていく。しかも変ロ短調、速いテンポと、ショパンの「葬送ソナタ」のフィナーレを彷彿とさせる。もっとも、虚無的なショパンのフィナーレより、熱い情念が静かに燃えあがるような激しさを感じさせる。 フィナーレは、Passionato。スケールの大きな音楽で、情熱的にたたみかけるようなフォルテで始まり、左手と右手が呼応しあうように進む。最後は、コーラスの声が重なりあうような迫力で最初のテーマに回帰する。あたたかな和声に一瞬変わっても最後は、やはり、哀しく終わる。
モーツァルトは、皇帝ヨーゼフ2世(右の肖像画)も臨席した1783年3月23日のコンサートで、イタリア人音楽家、ジョヴァンニ・パイジェルロのオペラ「哲学者気取り、または星の占い師たち」の「主よ幸いあれ」をテーマにして即興演奏している。この変奏曲は、このときの即興演奏をもとにして、1786年にアルタリア社から出版されている。 昨年弾いた《グレトリー変奏曲》やグルックの主題による変奏曲に比べて規模は小さいが、変奏曲の後半がかなり自由に、また大胆になっていることに特徴があり、これはこの時期モーツァルトが取り組んでいた前奏曲や幻想曲の影響があるのかも知れない。 パイジェルロのオペラは、1781年5月にウィーンで上演された。 モーツァルトは以前からパイジェルロのことをよく知っていたが、1781年夏にザルツブルクの大司教と喧嘩してウィーンに移り住んだ年、ひょんなことから間接的に関わりを持っている。 この年のクリスマス・イブ、モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世に王宮に招かれた。 このとき招かれたのは、やはりイタリア人音楽家、ムツィオ・クレメンティだった。 ちょうどその頃、ロシアのパウル大公の夫妻がウィーンを訪れていて、皇帝はパウル大公をもてなす出し物として、音楽家同士の競演、いわばコンテストを企画したのだった。 皇帝は、モーツァルトとクレメンティにスコアを渡し、このテーマをもとに、即興で弾きなさい、と命じたが、 このソナタがパイジェルロの作品だった。 なぜ皇帝はパイジェルロのソナタをこのコンテストに使ったのか。 パイジェルロはサンクト・ペテルブルクでロシア宮廷の宮廷楽長をつとめており、ロシアの大公夫妻がパイジェルロのことを知っていると思ったからだろう。 当時のロシアの宮廷は西の優れた音楽家を招き、その音楽を取り入れようとしたが、彼らの大部分はイタリア人音楽家たちだった。その代表がパイジェルロであり、 ドメニコ・チマローザだった。
リストのピアノ曲集「巡礼の年」は、「第1年・スイス」が1855年に、「第2年・イタリア」が1858年に、「第2年への補遺・ヴェネツィアとナポリ」が1861年に、「第3年」が1883年にそれぞれ出版されている。 「巡礼」のタイトルのとおり、イタリアやスイスを訪れ、各地で見聞きした風景やその印象、芸術体験などがそれぞれの作品を作曲した契機となっている。あてどなく各地を放浪し、最後に幸せの地を見いだそうという心情は、もっともロマン主義的なものである。 「第2年への補遺・ヴェネツィアとナポリ」は3曲からなるが、もともとは1840年に作曲された4曲が原型となっている。「ゴンドラを漕ぐ女」(Gondoliera)はその第1曲で、ヴェネツィアの舟歌の旋律が使われている。 この3曲のスコアを見ると、第1曲と第2曲の終わりは複縦線で仕切られ、3曲が続けて演奏されることが作曲者の意図であるように読めるが、私はむしろ余韻を持って後半のリストのほかの作品を聴いていただきたいと思い、第1曲で前半を閉じることにした。
「ラウラが泣くとき そのあまりの美しさに 太陽は嫉妬し 山や川など自然を恐れさせる ラウラが泣く姿はまるで神のようだ その姿を見た全てのものたちは 沈黙し 静寂に包まれる」
この曲は、歌のバージョンでの伴奏をしたこともあるが、両方弾き比べてみると、歌のパートもすべてピアノに入れ込んでしまったピアノ曲の方に軍配があがるような気がする。ピアノという楽器の表現力を知り尽くし、ピアノを歌わせることが出来た「ピアノの巨人」リストの圧倒的存在を感じる。リストのピアニズムがこういう「歌曲の編曲もの」の中にもいかんなく発揮されている。
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