2007 年 7 月 21 日(土) 15:00 茅野市民館
2007 年 7 月 31 日( 火) 19:00 東京文化会館  
Program note

  
2010.4.6
2008.9.1
2007.7.31
2006.9.30
2006.4.22
2005.9.13
2004.9.1
2003.10.29
2003.5.31
2002.11.20
2002.5.9

ヨハン・クリスティアン・バッハ:ピアノ・ソナタ イ長調 作品17の5

  第1楽章 Allegro
  第2楽章 Presto

モーツァルト:ピアノ・ソナタ イ短調 KV310
 
  第1楽章 Allegro maestoso
  第2楽章 Andante cantabile con espressione
  第3楽章 Presto


ヴィートールス :前奏曲 作品13の2  作品17の2   

ヴィートールス :ラトビア民族の歌 作品29の7  作品32の5

モーツァルト:ピアノ・ソナタ ニ長調 KV311
 
  第1楽章 Allegro con spirito
  第2楽章 Andante cantabile con espressione
  第3楽章 Rondeau(Allegro)

ショパン :幻想曲 ヘ短調  作品49
  



<プログラム・ノート>    久元 祐子
ヨハン・クリスティアン・バッハ:ピアノ・ソナタ イ長調 作品17の5

 大バッハは、 二度目の妻、アンナ・マクダレーナとの間には、13人の子供を設けたが、一番末の息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ(1735−1782 右の肖像画)が後世に名が残る音楽家となった。彼は15歳ヨハン・クリスティアン・バッハのときに父の大バッハが亡くなると、ベルリンの兄エマヌエル・バッハの下に預けられ、その教育を受けた。ベルリンで観たイタリア・オペラの魅力に魅せられ、20歳のときにイタリアに赴く。そしてカトリックに改宗し、ミラノ大聖堂のオルガニストを7年間つとめた。その後ボローニャのマルティーニ神父のもとで作曲を勉強し、ナポリでオペラを作曲した後、1762年、イギリスに渡り、王妃シャーロットの音楽教師になった。
 彼は、ロンドンでオペラや交響曲、室内楽などを作曲し、人気のある音楽家として活躍したが、クラヴィーアのためのソナタも多数残している。ロンドンは、ピアノフォルテがもっとも早く普及した都市で、ヨハン・クリスティアン・バッハの作品5の6曲のクラヴィーア・ソナタは、当時ロンドンで流行していたスクエア型のピアノフォルテを想定して作曲された。モーツァルトは1764年から1765年に神童としてロンドンを訪れ、バッキンガム宮殿でヨハン・クリスティアン・バッハとともに国王ジョージ3世の前で演奏しているが、モーツァルトは後に彼の作品5のうちの3曲をクラヴィーア協奏曲に編曲している。
 きょう弾かせていただく作品17のソナタは、ヨハン・クリスティアン・バッハの代表作で、1773年か1774年にロンドンで作曲された。パリのジベール社で出版され、その後、ウィーン、ロンドン、アムステルダムでも出版された人気作品である。ほぼ同じ頃、ハイドンは、やはり6曲からなる作品13のピアノ・ソナタを作曲しているが、弾き比べてみると、作風の違いがよくわかる。ハイドンはおそらくはチェンバロを想定して作曲しており、バッハ・ジュニアは、ピアノフォルテで弾かれることも想定して作曲したという違いもあるが。
 第5曲のイ長調のソナタは、とりわけ優雅な雰囲気にあふれ、クリスティアン・バッハの曲の中ではもっとも好きな曲だ。モーツァルトのピアノ・ソナタはすべて3楽章形式でできているが、クリスティアン・バッハのピアノ・ソナタには、この曲のように2楽章形式で書かれているものも多い。
  

モーツァルト :ピアノ・ソナタ イ短調 KV310
 1777年9月、21歳のモーツァルト(1756−91)は、ザルツブルクのオルガニストの職を辞し、母マリア・アンナとともに新天地を求める旅に出た。この旅は結果的には、どこの宮廷でも職にありつけず、手痛い失恋を味わい、パリでは母を亡くすという悲劇的な結末を迎えることになる。モーツァルトにとっては大きな試練の旅となるのだが、旅行の初期に立ち寄ったマンハイムでは、そのような旅の結末を知る由もなく、解放感にひたった。モーツァルトは、このマンハイム滞在中に、ハ長調 KV309 と ニ長調 KV311の2曲のピアノ・ソナタを作曲しているが、いずれも曇りのない明るさと解放感に溢れている。
 モーツァルトは続いてパリを訪れるが、かつて神童を大歓迎したパリの人々は、成人したモーツァルトには手のひらを返したように冷たかった。演奏団体コンセール・スピリチェエルに協奏交響曲を持っていってもまったく無視され、スコアを隠されたりもしたという。ド・シャボー公爵夫人のサロンでは、寒々とした部屋でさんざん待たされ、よくやく通された部屋に置いてあったピアノフォルテはとんでもないおんぼろ楽器で、しかもモーツァルトが「フィッシャーの主題による変奏曲」を弾いていた間中、女主人も客たちもデッサンを続けていたという。
 さらに大きな悲劇は母の死だった。陽の射さない暗い部屋でひとり過ごすことの多かった母マリア・アンナは病気になり、寂しく息を引き取った。こうして悲嘆に暮れていた頃、モーツァルトはパリ郊外のサンジェルマン・アン・レーでヨハン・クリスティアン・バッハに再会している。
 おそらくこの時期に作曲された名曲が、イ短調KV310である。悲劇的な雰囲気と独特の緊張感をはらんだ異色のピアノ曲として、19世紀以来愛されてきた。自筆譜は残されていて、「1778年」とだけ記されている。モーツァルトはこのソナタについては何も書き記しておらず、作曲の目的やパリで演奏されたのかどうかなど、演奏の手がかりになるようなことは何もわかっていないが、このソナタには、不遇だったこの頃のモーツァルトの心情がおそらくは色濃く投影されていると思う。その作風と芸術的境地は、バッハ・ジュニアとはすでに遠く隔たっていた。
 このソナタの第1楽章では、冒頭から衝撃的な緊張感があたりを包む。左手で3音または4音からなる和音が1小節に8つずつ叩かれるという分厚い伴奏の上に、不安定なリズムの、それでいて決然とした旋律が登場する。第1主題の後半はピアノとなり、ハ長調となって一瞬緊張は和らぐが、すぐにまたイ短調に戻り、フォルテで冒頭の嵐が再来し、鋭いフォルテとピアノの対比によって緊張感は高まっていく。第2主題は、第1主題とよく似た左手の伴奏の上に、16分音符のパッセージがハ長調で現れ、伴奏の形は次々に変化していく。展開部は、ディナーミクの幅が広く、フォルテシモとピアニシモの間の対比の中を揺れ動く。内声部が巧みに使われ、音楽に深みを与えている。
 緊張感を孕んだ第1楽章が何のもったいもつけられずに終わると、天国的な美しさを湛えた第2楽章が続く。何かに立ち向かうかのような力強さと動きに満ちた第1楽章と打ってかわって、アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッショーネの第2楽章は、静かな緊張感の漂う不思議な雰囲気に変わる。ここうした気分は、この提示部が繰り返されるとき、より味わい深いものとなる。しかしモーツァルトが静かに「床の揚げ蓋」(メイナード・ソロモン)を開けると、「平安を乱し、騒がせる力が吹き上げてきて」、雰囲気は暗転する。「耳に刺さるような不協和音、短調と長調をシフトしながら続く、速い容赦ない転調」などが続く。「モーツァルトはこうした混沌と崩壊」を放置はせず、やがて提示部の静かな世界が回復される。
 この偉大な第2楽章に続く終楽章は、再びイ短調に戻り、テンポは第1楽章よりも上がってプレストとなる。この楽章は、やはり疾走する音楽だろう。符点音符のロンド主題がたたみかけるように全体を覆い、喘ぐように走り抜ける。この楽章の特異な雰囲気は、バスによって生まれているところが大きいと思う。ほとんどの小節で、バスの1拍目が休止符になっている。まるで後ろから何かに追いかけられ、ほとんど地面に足を踏む暇もなく、ひたすら前へ前へと進む音楽である。

ヴィートールス :前奏曲 作品13の2  作品17の2

私は、ラトビアの音楽に関心を持ってきた。2002年には20世紀ラトビア音楽を代表する作曲家、ヤーゼプス・ヴィートールス(1863−1948)の「ピアノのための10の変奏曲 作品6」を日本初演として弾かせていただいた。
2002年5月9日のプログラム・ノート
また、好評をいただいたので、翌年にも弾かせていただいた。
2003年5月31日のプログラム・ノート
さらに、2005年にはヴォルフガングス・ダルツィンス(1906−1962)のピアノ・ソナタ第2番をやはり日本初演として弾かせていただいた。
2005年9月13日のプログラム・ノート

今年は、ヤーゼプス・ヴィートールスの小品を4曲お聴きいただく。
前奏曲 作品17の2 ホ短調は、アンダンティーノ 8分の6拍子。メランコリックな主題が、美しく色合いを変えながら、繰り返される。3回のフェルマータでは、届かない憧れが宙に消えていくかのような哀しさと余韻が残る。最後は、ホ長調に転じ、光が差したように安らかな雰囲気の中に消えていく。
前奏曲 作品13の2 ト短調は、ヴィヴァーチェ・アッサイ 4分の3拍子。渦を巻くような音型でたたみかけるように始まり、時折、閃光のようなアクセントが衝撃的にすり抜ける。妖精が森に消え、一瞬の幻であったかのような闇が広がる。幻想的な雰囲気の小品。


◇ヴィートールス :ラトビア民族の歌 作品29の7  作品32の5

 ラトビア民族の歌 作品32の5 ニ短調は、アンダンテ・メストで4分の3拍子。哀しい嘆きの歌が、低い男声合唱の声を思わせるユニゾンで開始される。5小節+3小節という不規則なフレージングが、ラトビア語の語感を思わせる。ため息のモチーフが上声部にかぶさり、大きな叫びとなっていく。中間部は、天使の合唱のように、高音に転じ、4声がからみあいながら、歌い進み、最後は、力尽きるかのように、たったひとつの音が鳴らされ、張りつめた空気の中で、曲を閉じる。
 ラトビア民族の歌 作品29の7 嬰へ短調は、アレグレット・ヴィーヴォで4分の2拍子。エネルギッシュな力にあふれた曲である。アクセントのきいた踊りのリズムが繰り返されるながら、気分は高揚していく。イ長調の陽気なフレーズが交互に現れ、最後は高らかに喜びの爆発で終わる。

モーツァルト :ピアノ・ソナタ ニ長調 KV311
 1777年秋から冬にかけてのマンハイム滞在中、2曲のピアノ・ソナタが作曲されたが、ひとつのピアノ・ソナタ、ハ長調K309については、モーツァルトはいろいろと興味深いことを書き残しているものの、このニ長調K311についてはほとんど何も語っていない。
 モーツァルトの器楽曲にしてはやや脱線気味かもしれないK309に比べ、このK311は、全体にわたって優雅な気品が感じられる。
 第1楽章を弾いていて感じるのは、シンフォニエッタのスタイルが随所に見られることだ。さまざまな楽器が登場し、対話を交わしているようなやりとりが鍵盤上で行われている。フォルテとピアノの対比をまじえながら、両手をフルに使って、弦楽器や管楽器の音色や節回しを思わせる音型をふんだんに繰り出し、多彩な響きを創り出そうとしている。そのような特徴は、動きがめまぐるしくなる展開部において著しい。
 第2楽章は、アンダンテ・コン・エスプレッショーネ、4分の2拍子。軽妙でいてしみじみとしたロンド風の音楽。テーマは柔らかく、発展可能性に富んでいるが、フォルテとピアノの対比ははじめから出てきて、全体を通じ、効果的に用いられている。テーマは現れる度に微妙に、そして大胆に変化していき、美しく移ろっていく。そして移ろいながらいつしか決然とした雰囲気に入り、トリルや休符を交えながら、ときには半音階的に動き、また、トリルを多用したりして、変幻自在な動きを見せる。
 第3楽章ロンドは、コンチェルトの色彩が強い。ピアノ・コンチェルトの終楽章そのものといってもいいような雰囲気を持っている。躍動感のあるテーマで始まり、ソロとオーケストラが掛け合ったり、オーケストラの伴奏の上にソロの華麗なパッサージが繰り広げたり、ソロからオーケストラへなめらかに受け継がれるかのような場面が次々に出てきて、まったく聴き手を飽きさせない。明らかにトゥッティがイメージされている華やかな音型が奏され、両手で4つずつの和音がフェルマータにより長く弾かれた後、カデンツァが始まり、アンダンテ、プレスト、アダージョとテンポもめまぐるしく変化する。再びロンド主題が戻ってくるのだが、コーダの部分も長く、またソロとトゥッティが挑発し合うかのように競演し、華やかに曲を閉じる。
 このソナタは、反復の仕方にもよるが、第1楽章よりも第2楽章が、第2楽章よりも第3楽章が長く、終楽章に重点があり、しかも終楽章のカデンツァをめざして進んでいく。モーツァルトはこの楽章で、これまでのピアノ・ソナタでは行わなかったような実験をしており、それは見事に成功しているように思える

ショパン :幻想曲 ヘ短調  作品49

ショパン(1810−49)は、幻想曲というタイトルを持った作品をこの1曲だけしか残していない。1841年に作曲され、翌年に出版された。スウゾー公爵夫人に献呈されている。ノアーンでジョルジュ・サンドと幸福な日々を送っていた頃の作品で、ショパンの気力の充実が反映しているといった説明が解説書などで書かれていることが多いが、果たしてそうだろうか。
 確かに規模や内容の面で、ショパンの作品の中でも傑作の中に入ることは間違いがないだろう。しかしこの幻想曲を弾いていると、ショパンの横溢せんばかりの創作力の漲りを感じるというよりは、むしろ後ろ向きに後ずさりしていくような、あえて言えば「死」のイメージ、無の意識のようなものである。それは、この曲の少し前に作曲された「葬送ソナタ」にも通じるものであり、この2曲は、形式の違いを超えて、音楽の内容の面で共通点が多いように思える。葬送行進曲のリズム、葬送ソナタのフィナーレを思い起こす、風のようなパッセージ、遠くの教会から聞こえて来るかのようなコラール、斃れた英雄の栄誉を称えるかのような力強いマーチなどが次々に出現する。

  

2006.9.30 へ