久元 祐子 ピアノ・リサイタル 2004 年 9 月 1 日 (水) 19:00 東京文化会館 Program note
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750) ― 大バッハはおびただしい数の鍵盤楽器(クラヴィーア)のための曲集を残している。大バッハの時代には既にピアノの前身であるピアノフォルテは発明されており、大バッハ自身、ジルバーマンが制作したピアノフォルテを弾いたことはあったが、ピアノフォルテはまだほとんど普及しておらず、大バッハの鍵盤楽器のための作品は、チェンバロかクラヴィコードで弾かれることを想定して作曲された。 6曲からなる「フランス組曲」は、大バッハがケーテンで過ごした1722年頃の作品と考えられている。大バッハは1720年に最初の妻バルバラを亡くしているが、翌年には21歳の歌手、アンナ・マクダレーナと結婚している。15歳の年齢の差にもかかわらず、ふたりは仲睦まじかったようで、大バッハは新しい妻のためにクラヴィーアための作品をたくさんつくっている。これらの作品の中に、後に「フランス組曲」として編まれることになる曲集の一部が含まれている。多くの研究者は、1720年から1722年に間に、それまでにつくられていた舞曲を含め、大バッハや弟子の手によって、「フランス組曲」と「イギリス組曲」が編集されたと考えている。大バッハ自身がこのように命名したわけではないが、この二つの組曲の名前は、愛称として大バッハ存命中に流布していたと考えられている。 「フランス組曲」は6曲あり、それぞれが、いずれもアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグを含む舞曲から構成されている。今回弾かせていただく第5番は、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ブーレ、ルール、ジーグの7曲の舞曲からなる。 アルマンドは文字どおりドイツで踊られた舞曲で、ややゆったりとした4拍子系のリズムをとる。もっとも起源は古いとされている。クーラントは、フランスとイタリアに起源を持つ活発な舞曲で、3拍子系をとる。サラバンドは、スペインから取り入れられた舞曲で、ゆったりとした3拍子系をとる。ガヴォットは2拍子を基調とするフランスの民族舞曲で、中くらいの速さ。ブーレは2拍子または4拍子系だがガヴォットよりも激しい動きを見せる。ルールもフランス舞曲で、メヌエットの代わりに用いられている。ジーグは、組曲を締めくくる明るい活発な舞曲で、イギリスが起源とされている。 もともとバロック時代の舞曲は、舞踏の伴奏曲であったものが、純粋の器楽曲として独立したものなので、それぞれの曲の雰囲気は、舞踏を見ることが有意義だと考えられる。私は、バロック・ダンス研究家の分野で第一人者でいらっしゃる浜中康子氏と対談コンサートを行い、実際に浜中氏のステップを拝見したことがあるが、それぞれのイメージをつかむのにとても役立った。
サン・ジェルマン(左の絵は18世紀のサン・ジェルマンを描いたもの)で、旧知のヨハン・クリスティアン・バッハに会っていた1778年、モーツァルトは、パリでクラヴィーア・ソナタを作曲していた。イ短調 KV 310である。悲劇的な雰囲気と独特の緊張感をはらんだ異色のピアノ曲として19世紀以来愛されてきた。 自筆譜は残されていて、「1778年」とだけ記されている。モーツァルトはこのソナタについては何も書き記しておらず、作曲の目的やパリで演奏されたのかどうかなど、演奏の手がかりになるようなことは何もわかっていない。このソナタは後にパリのエーナ社から出版されているが、その出版譜は間違いの多いものだった。 このKV310のクラヴィーア・ソナタには、この頃のモーツァルトの心情がおそらくは色濃く投影されていると思う。よく知られているように、かつて神童を大歓迎したパリの人々は、成人したモーツァルトには手のひらを返したように冷たかった。演奏団体コンセール・スピリチェエルに協奏交響曲を持っていってもまったく無視され、スコアを隠されたりもしたという。ド・シャボー公爵夫人のサロンでは、寒々とした部屋でさんざん待たされ、よくやく通された部屋に置いてあったピアノフォルテはとんでもないおんぼろ楽器で、しかもモーツァルトが「フィッシャーの主題による変奏曲」を弾いていた間中、女主人も客たちもデッサンを続けていたという。さらに大きな悲劇は母の死だった。陽の射さない暗い部屋でひとり過ごすことの多かった母マリア・アンナは病気になり、寂しく息を引き取った。 このソナタの第1楽章では、冒頭から衝撃的な緊張感があたりを包む。左手で3音または4音からなる和音が1小節に8つずつ叩かれるという分厚い伴奏の上に、不安定なリズムの、それでいて決然とした旋律が登場する。第1主題の後半はピアノとなり、ハ長調となって一瞬緊張は和らぐが、すぐにまたイ短調に戻り、フォルテで冒頭の嵐が再来し、鋭いフォルテとピアノの対比によって緊張感は高まっていく。第2主題は、第1主題とよく似た左手の伴奏の上に、16分音符のパッセージがハ長調で現れ、伴奏の形は次々に変化していく。展開部は、ディナーミクの幅が広く、フォルテシモとピアニシモの間の対比の中を揺れ動く。内声部が巧みに使われ、音楽に深みを与えている。 緊張感を孕んだ第1楽章が何のもったいもつけられずに終わると、天国的な美しさを湛えた第2楽章が続く。何かに立ち向かうかのような力強さと動きに満ちた第1楽章と打ってかわって、アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッショーネの第2楽章は、静かな緊張感の漂う不思議な雰囲気に変わる。ここうした気分は、この提示部が繰り返されるとき、より味わい深いものとなる。しかしモーツァルトが静かに「床の揚げ蓋」(メイナード・ソロモン)を開けると、「平安を乱し、騒がせる力が吹き上げてきて」、雰囲気は暗転する。「耳に刺さるような不協和音、短調と長調をシフトしながら続く、速い容赦ない転調」などが続く。「モーツァルトはこうした混沌と崩壊」を放置はせず、やがて提示部の静かな世界が回復される。 この偉大な第2楽章に続く終楽章は、再びイ短調に戻り、テンポは第1楽章よりも上がってプレストとなる。この楽章は、やはり疾走する音楽だろう。符点音符のロンド主題がたたみかけるように全体を覆い、喘ぐように走り抜ける。この楽章の特異な雰囲気は、バスによって生まれているところが大きいと思う。ほとんどの小節で、バスの1拍目が休止符になっている。まるで後ろから何かに追いかけられ、ほとんど地面に足を踏む暇もなく、ひたすら前へ前へと進む音楽である。
ショパン(1810−49)の作品を弾くたびに、その芸術は完璧な完成度を持っていることを痛感するが、そのようなショパンの芸術性がもっともよく現れている作品群がマズルカだと思う。ショパンはその短い音楽人生のほぼ全体にわたってマズルカを書き続けた。それはこのジャンルが、失われた祖国の伝統音楽であったからとかそういう理由ではなくて、ショパンにとって心地よいものだったからだろうと思う。ショパンは、純粋に審美的見地から見て完璧な作品をつくろうとした作曲家だったが、そのようなショパンの意欲を、もっとも自然に発揮できるジャンルがマズルカだったのではないだろうか。 マズルカは大部分が簡潔な三部形式によって書かれている。三部形式の簡潔な様式の中で、無駄のない、それでいてあらゆる技巧的な豊穣を表現しようとしたのだと思われる。 作品59の3つのマズルカは、1845年に作曲され、同じ年に出版された。ショパンはこの年、ジョルジュ・サンドと破局を迎えているが、当然のことながら、そのような事情や感情は、これらの作品にまったく反映されていない。 この3曲はそれぞれ作風は異なっているが、じつに研ぎ澄まされた完璧さを備えていまる。調とリズムは自在に変化し、しかも極度に洗練されている。優雅な音楽だが、表面的に美しいだけではなく、そこには不安と安らぎが同居している。すぐれて大人の音楽だと思う。 3曲を続けて弾くと、様式は同じなのにかなり性格がちがうことに驚かされる。たとえば曲の開始だけとってみても、イ短調の第1曲では、2小節の短いため息まじりの告白のようなフレーズで、調の浮遊感によって曲が始まっている。イ短調のI度の基本形は、一瞬4小節目にちらっと出るだけで、あとは、12小節までほかの調をふらふらとさまよい、どこに連れて行かれるのかわからないような不安な感覚でさまよっていくという感じ。 変イ長調の第2曲では、変イ長調のI度で始まり、IV度のドミナント、そしてIV度を通過して、4小節目に一区切りし、変イ長調のI度に戻ってきてくれる。はるかに安定した気分が醸し出されているし、調の安定感とともに、アレグレット(やや快速)の心地よいテンポ、そして3拍子のリズムが、一種の安らぎのある安定感を曲の冒頭からもたらしている。 嬰ヘ短調の第3曲では、出だしからジプシーの歌声を思わせるような旋律で始まり、聴く者を異国の地に誘うかのよう。血が騒ぎ立ち、情念が燃えたぎるかのように激しく開始される。
2003.10.29 へ