久元 祐子 ピアノ・リサイタル 2002 年 5 月 9 日 (木) 19:00東京文化会館 Program note
ザルツブルクのコロレド大司教と決裂し、ウィーンで音楽活動を始めたばかりの1781年7月4日、モーツァルトはザルツブルクの姉ナンネルに宛てて、「3つの歌を主題にした変奏曲を書きましたので、お姉さんに送ることができます」と書き送っている。この3曲の中に、この変奏曲も含まれていると考えられている。 この《グレトリー変奏曲》は、1778年にパリで上演されたアンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリー(1741−1813)(左の肖像)のオペラ《サムニウム人の結婚》第1幕で歌われる合唱「愛の神」の旋律を使っている。モーツァルトはこのグレトリーと、10歳のとき、西方の大旅行から帰還する途中のジュネーブでに会っている。このときグレトリーは25歳。彼はかなり難しいアレグロを作曲してモーツァルトに初見で弾かせてみたが、モーツァルトは気にくわない箇所を即興で変えながら見事に演奏したという記録が、グレトリー自身によって残されている。 このときから15年の歳月が流れ、今や当時のグレトリーと同じ年代にさしかかり、円熟期に入ろうとしていたモーツァルトは、パリで聴いた彼の旋律を思い起こしてこの変奏曲を作曲したのだろう。 テーマは2分の2拍子の伸びやかで明るい旋律。オーソドックスな手法でその音型と伴奏形が変化し、第4変奏では、右手が長いトリルを奏で、テーマは左手で三度の重音により奏され、第5変奏はヘ短調でテーマが美しく変化する。モーツァルトのほかの変奏曲と同様、終わりから2番目の第7変奏ではアダージョになるが、ここでは左手の動きが抑制され、しっとりとした味わいが重視されているように思える。最後の第8変奏では、3拍子に変わり、快いスピード感の中でさわやかに曲を閉じる。 この《グレトリー変奏曲》を弾いていると、有名なピアノ・ソナタ イ長調 KV 331の第1楽章と共通点が多いように思える。優雅な気分、華やかだけれどどこか抑制が感じられる演奏技法など、全体的に共通した雰囲気を持っているし、個々の変奏のやり方にも似たようなやり方が目立つ。第1変奏で左手の和音の上に右手がテーマを細かく装飾する出だしはそっくりだし、第2変奏では3連符またはアルベルティ・バスの伴奏を伴い、3度で上昇する間の音にトリルをつける語法、また第3変奏に右手オクターブ連続を登場させるあたりも似ている。短調でメランコリックでリリカルな表情を見せた直後は、華やかな両手の交差の技法を披露する。そのこと自体はモーツァルトによく見られる手法だが、左手が3度でテーマを扱うやり方は両者に全く共通である。そのあとにゆったりとしたテンポの変奏、終曲でアレグロ(快速)のテンポで駆け抜けるという点も同じである。 おそらく、《グレトリー変奏曲》とK331のピアノ・ソナタは、同じ時期に作曲されたように思える。そうしてみると、このソナタが1778年のパリではなく、モーツァルトがウィーンに移り住んでから作曲されたという説の方が、実際に弾いていても説得力を持つような気がするがどんなものだろうか。(この点については、小著「モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪」p181以下を参照
「詩的で宗教的な調べ」は、1852年に完成された曲集で、10曲からなる。 フランスの詩人ラ・マルティーヌの詩集にインスピレーションを得て作曲されたと伝えられる。 第7曲「葬送曲」は曲集の中でもっとも知られた作品で、スコアには、「葬送曲。1849年10月」と記されている。誰の死を悼んでつくられたのかについては、1849年10月に亡くなったフレデリック・ショパンだという説と、同じ年の8月にハンガリーで起こった暴動で処刑された人々であるという説との両方が言われてきたが、私は、この曲を弾いていると、後者の説が正しいと確信する。 1848年、フランスで二月革命が勃発。この後、ヨーロッパの各地で民主化や独立を求める動きが広がっていく。ハプスブルク家のオーストリア帝国が支配下していたハンガリーでも完全な自治を求める運動が広がり、オーストリアはいったんはハンガリーが独立した政府を持つことを認めることにした。しかし、多数派を占めるマジャール人と少数派のクロアチア人、スロヴェニア人との対立が激しくなり、この機に乗じたオーストリアはロシアとともに大軍をハンガリーに送って介入。マジャール人たちは勇敢に抵抗したが、1849年8月、首都ブタペストは陥落して降伏し、10月6日、ハンガリーの臨時革命政府を率いていたバッチャーニと独立戦争を指導した将軍13名は処刑されたのである。(上は、1849年の悲劇を描いた絵。Dobo Istvan Varmuzeum 提供) 曲は冒頭からあまりにも重々しい響きで始まる。低いDesとCが鳴らす残酷なぶつかりの中、ため息のモチーフが続く。重い鎖をつけられて刑場へと引き立てられていく英雄たちを見守る人々の間に、ため息と悲しみが広がっていく。小太鼓の音とともに、人々の嘆きはあたり一面を覆い尽くしていくかのようだ。曲のなかほどに、悲しみの聖母のほほえみのようなやわらかな響きが現れる。そしてショパンの英雄ポロネーズのバスの音と似た動きが現れ、英雄の勇気を讃えるかのような勇壮な音楽に変わっていく。絶望とやり場のない怒り、悲しみはさらに高まり、ついに鐘が鳴らされて刑が執行される。
ラトヴィアは、バルト海に面する、バルト三国の一国である。6万4600平方キロほどの国土に240万人ほどの人々が暮らしている。 ラトヴィア語を話すラトヴィア人の国だが、13世紀にドイツ騎士団が進出し、今日のリガの街(左の写真)を建設した。 その後この国の支配者はポーランド、スウェーデンと変わり、18世紀にはロシアの支配下に入った。ロシアの過酷な支配は長く続き、第1次大戦後ようやく独立するが、第2次大戦中、スターリンの軍隊が侵攻、ラトヴィアは旧ソ連の一部となり、社会主義体制に移行した。独立を勝ち取るのは約半世紀後の1991年のことである。 ラトヴィアは民謡の宝庫である。古くから合唱が盛んでコンサートがひんぱんに行われてきたが、同時にヨーロッパの音楽も取り入れてきた。1837年から39年までは、大作曲家のワーグナーがリガに滞在し、オペラを指揮した。ワーグナーが振ったホールは現存しており、「ワーグナーホール」と名付けられている。リガはもともとドイツ騎士団が建てた街という歴史もあり、今日でもドイツとのつながりが深く、ドイツ人の指揮者やソリストも頻繁に来て演奏しているようだ。 私は、1991年4月、まだラトヴィアが旧ソ連の一部だったとき、首都リガでラトビア国立交響楽団とモーツアルトのコンチェルトを共演させていただいたが、以来3回この国を訪れ、リサイタルを開いたり、ラトヴィアの人々と親交を温めてきた。きょう弾かせていただくヨーゼフ・ヴィトールの「ピアノのための10の変奏曲作品6」は、昨年ラトヴィアを訪れたとき、ラトヴィアの音楽家からスコアをいただいた作品である。 ヤーゼプス・ヴィートールス(1863−1948)(右の肖像画。Music in Latvia 所蔵)は、20世紀のラトヴィア音楽を代表する作曲家。サンクト・ペテルブルク音楽院でリムスキー・コルサコフに学び、卒業後は、同音楽院の作曲家の教授となった。ロシア革命後の1918年、故郷のラトヴィアに戻り、リガにラトヴィア音楽院を創設し、教鞭をとった。1944年、ソ連軍がラトヴィアに侵攻したときドイツに逃れ、第2次世界大戦後にはデトモルトの音楽学校の校長に任命されたが、失意のうちにリューベックで亡くなった。 ラトヴィアの民俗音楽を取り入れた数多くの歌曲、合唱曲で知られるが、ピアノ作品も作曲しており、この「ラトヴィアの主題による ピアノのための変奏曲 作品6」は、今回が日本初演となる。素朴でメランコリックな詩情あふれるテーマと10の変奏からなる。ロシア的な情念、ドイツ音楽の伝統と形式、そしてなによりもラトヴィアの歌心、、、いろいろな魅力のあふれた名曲だと思う。
「彼女のふたつの瞳が私の心をつかんだ この日、月、年、季節、時代、時間、点、美しい国、位置に感謝する 弓でハートに矢を打たれ、心の深いところに傷が入り込んだときの 初めての甘い苦痛に感謝する 私が彼女を呼ぶ多くの声、ため息、涙、欲望に感謝する そして、彼女の名声を探し求め、彼女以外のほかの対象を持たず、 ほかの女性に振り返らない私の考えに感謝する」
ダグー伯爵夫人と別れた後、リストが人生をともにした女性が、カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人(1819‐87)だった。華やかなコンサート・ピアニストでもあったリスト(左の絵は、ピアノを弾くリスト。 Boesendorfer 提供)は、夫人と出会った後、演奏人生から退き、ワイマールに移り住んで、作曲に専念するようになる。二人はやがて結婚を願いようになり、夫人の夫との離婚許可をローマ教皇から得るためローマに向かった。しかし、ローマ教皇はカロリーネの離婚を認めず、やがてリストと夫人との間には別れのときがやってきた。 リストは、次第に宗教の世界に惹かれるようになり、1865年には僧籍に入ることになる。 「二つの伝説」は、このような事情の中でリストがローマで作曲した作品である。「ローマで1866年。フランツ・リスト」との署名がある序文が残されており、リストは序文で、この作品を書く契機となった2冊の書物を引用している。 一冊はアッシジの聖フランシスについての伝記である「聖フランチェスの小さき花」で、もう一冊はジュゼッペ・ミシマッラが著した「パオラの聖フランチェスコの生涯」である。(我が国で出版されている楽譜にはこの序文が省略されているが、残念なことである。) 数多くの解説書は、この二人の「聖フランシス」についてほとんど記しておらず、「ピアノ鑑賞事典」(中河原理編:東京堂出版)に至っては、「テーマとなっているのは2曲とも、13世紀の初めにイタリア各地に多くの徳を施したフランシスコ教会の設立者として名高い聖フランシスに基づく伝説である」と書いているが、2曲目の「聖フランシス」は、200年以上後の人物であり、二人はまったく別の聖職者である。
聖フランシス修道会をつくった聖フランシスは、1181年、イタリアのアッシジで富裕な商人の家に生まれた。恵まれた青春を送ったが、二十代半ばにして、持てるものすべてを投げ捨て、信仰の道に入る。ボロをまとい、町から村へと托鉢に歩き、病に苦しむ者を癒し、十字架にかけられたキリストと同じ聖痕を身に受けたりしたとも伝えられる。 この時代、教会の腐敗が目に余るものとなり、さまざまな異端の集団が都市や教会を襲うなど教会を取り巻く混乱状態が高まっていた。ローマ法王側も改革の必要を認めざるを得なかったのだろう。彼の革新的な行いは、やがてローマ法王から修道会として認められるところとなった。聖フランシスの革新運動はまたたく間にイタリア中に広がり、彼がその波乱に満ちた生涯を終える頃には、聖フランシスの運動は、一大勢力に成長していた。 聖フランシスの死後フランシス修道会の会長となった聖ボナベントゥラは、聖フランシスについて多くの事績を書き残した。これがリストが引用している「聖フランチェスの小さき花」で、第16章に小鳥への説法の伝説が記されている。これによれば、聖フランシスがいろいろな小鳥たち ― 鳩、つぐみ、やつがしら、烏、白鳥などに巡り会い、どんなに主を誉めたたえることが必要かを説いた。 聖ボナベントゥラの少し後に活躍した画家ジオットーは、アッシジの大寺院に、聖フランシスが小鳥たちに説教している光景を描いている。(右の絵) リストの「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」は、この伝説やジオットーの絵画を単に描写した作品ではないが、この曲を弾いていると、小鳥への説教の雰囲気は、忠実に音楽に移し変えられているように思える。 曲は、繊細極まりないアルペッジョとトリルで始まる。風に搖れる木々の梢のざわめきやいろいろな種類の小鳥たちのさえずりが聞こえて来る。演奏会用練習曲「森のささやき」冒頭を思わせる木々のざわめきのような右手のパッセージ、その梢の風に混じる小鳥の声。聴く者は、ジオットーが描いた穏やかな宗教画の世界に引き込まれていく。 やがてレチタティーヴォが始まり、聖フランシスが登場する。変ニ長調の荘厳な語りは、微妙に色合いや口調を変えながら進められる。聖フランシスと小鳥たちの一種の対話がつづいた後、曲は、「ダンテを読んで ― ソナタ風幻想曲」の中の、神による救済を一瞬思わせるかのような堂々たるクライマックスを迎えた後、法悦状態に至った小鳥たちの至福を暗示するかのようなピアニシモで終わる。 いささか余談になるが、聖フランシスが語りかけた鳥たちは、伝えられるような愛らしい小鳥たちではなく、墓地で死体を啄む烏や鵲(かささぎ)、禿げ鷹の類だったという話が、映画にもなったウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」に出て来る。 この小説の主人公でフランシス会の修道士、バスカヴィルのウィリアムが弟子の見習修道士アドソに語るところによれば、聖フランシスが救済しようとしたのは、当時の教会から排除された者たちだった。しかし彼らの救済をいくら民衆や行政官に語りかけても、一人として自分の言葉を理解する者がいないと知ったとき、聖フランシスは、町はずれの墓地に出かけ、死骸の腐肉をついばむ鳥たちに説教を始めたのだという。だから、そのような恐ろしい鳥たちとは、異端として教会の秩序から排除されてきた者たちを指し、聖フランシスの目的は、排除された者たちを神の民の内部に組み込もうとしたことにあるというのである。 聖フランシスの物語に出て来る鳥たちが、実は墓場で屍を啄む鳥たちであったという、全く同じ話が、やはり13世紀の中世ヨーロッパを舞台とした堀田善衛の小説「路上の人」にも出て来るところが面白い。この辺の事情は、いったいどのように考えたらよいのだろうか。
「パオラの聖フランシス」は、15世紀に活躍した聖フランシス修道会の聖職者である。アッシジの聖フランシスが清貧を説いて以来200年余りの歳月が過ぎ、修道会にはいつしか堕落が忍び寄っていた。彼は、アッシジの聖フランシスのように禁欲を自らに課し、瞑想に耽る。そのような中から、いくつかの奇蹟を呼び起こすが、伝えられる奇蹟の一つが、イタリア本土とシチリアを隔てるメッシナ海峡を歩いて渡ったという伝説である。 「あなたは聖人だからキリストのように歩いて海の上を渡れるはずだろう」と船頭に言われ、船を出すのを断られた聖フランシスは、自分のマントと杖を筏のように使い、メッシナ海峡を歩いて渡ったという。 音楽は、波の動きを表しているかのような動機が、大きなうねりを持って繰り返される。曲は、海峡を渡りきった偉大な聖職者を神が祝福しているかのような力強いクライマックスで閉じられる。