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- オーストリア領
- モーツァルト父子は、マントヴァを発った後、クレモナを経て、1月23日、ミラノに着きました。
当時ミラノを中心とするこのロンヴァルディア地方はオーストリア領で、総督はマリア・テレジアの皇子フェルディナンド大公(Ferdinand von Osterreich, 1754 - 1806)でした。
ミラノは、11世から独立した都市国家となり、にはそうし15世紀のルネサンス期には、スフォルツァ家がレオナルド・ダ・ビンチをミラノに迎えるなど、栄華を誇りました。
しかし、16世紀にスフォルツァ家の血筋が途絶えると、スペインの統治下に入り、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、オーストリア帝国の領土となり、ハプスブルク家の支配下に入りました。
- サマルティーニとの出会い
- マントヴァでは、コンサートで拍手喝采を浴びる傍ら、ドイツ人オペラ作曲家の大御所、ヨハン・アドルフ・ハッセ(Johann Adolph Hasse, 1699 - 1783)のオペラ《デメートリオ》を観ています。モーツァルトは、その感想をミラノからザルツブルクに書
- このときの滞在は2ヶ月足らずでしたが、モーツァルト父子はこの後もミラノを訪れ、この街はこの後も、イタリアにおけるモーツァルトの活動の拠点となります。それは、総督府の長官カール・ヨーゼフ・フィルミアーン伯爵(右の肖像画)が熱心なモーツァルトの後援者で、さまざまな支援を惜しまなかったからです。
2月7日、モーツァルトはフィルミアーン伯爵の邸に招かれ、自慢の腕前を披露します。
このとき、ヨーロッパ中にその名を知られていた作曲家、ジョヴァンニ・バティスタ・サマルティーニも招待されていました。彼は器楽音楽の大家で、シンフォニー、室内楽は、今日でもしばしばコンサートのプログラムにのぼります。
ミラノは、室内楽やオーケストラが音楽活動の重要な部分を占めていました。その中でも傑出していた存在が、サマルティーニ兄弟で、兄のジョゼッペ・サマルティーニはロンドンに移り住んでおり、ミラノを本拠に作曲・演奏活動を行っていたのは、弟のジョヴァンニ・バティスタ・サマルティーニでした。サマルティーニは、モーツァルトがミラノを去ってまもなく、1775年に世を去っています。
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