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- サン・マルコ広場
- ミラノからヴェロナ、パドゥヴァ、などを経て、モーツァルト父子が「水の都」ヴェネツィアに到着したのは、2月11日のことでした。ヴェネツィアは、中世から続く独立した共和国でした。
ちょうど謝肉祭のシーズンが始まったばかりで、ふたりは翌日にはさっそく、昼の2時から7時頃までオペラを楽しみ、夕食を食べた後、サン・マルコ広場(Piazza San Marco)で行われていた仮面舞踏会を夜中まで楽しんでいます。
- 祝祭的音楽都市
- 当時のヴェネツィアは、ナポリと並んでイタリア・オペラの中心で、もっとも有名な劇場がサン・ベネディット劇場でした。
ヴァルダッサーレ・ガルッピ、サルティ、ジョヴァンニ・パイジェッロなどが活躍していた全盛期は過ぎていましたが、それでもなお素晴らしい作品が生まれていました。
もともとヴェネチアには、18世紀前半、ヴィヴァルディ、アルビノーニ、マルチェルロが活躍した輝かしい伝統があり、モーツァルト父子が訪れたこの時期、長年の栄光に黄昏が訪れようとしていましたが、その輝きはまだ眩しかったようです。劇音楽、教会音楽ともに、新興勢力であるナポリに屈しつつあったものの、ヴェネツィアのコンセルヴァトワールは依然として健在で、若い歌手、器楽奏者、作曲家を輩出し続けていました。
また、ヴェネツィアには、この都市に特有の施設《オスペダーレ》がありました。
「施療院」とも訳されるこの施設は、もともとは貧しい人たちや孤児を対象とした収容施設でしたが、中世の後期には音楽教育が行われるようになり、音楽家がその指導に当たりました。
ヴィヴァルディが音楽教師として働いていたことはよく知られていますが、この時代にも、ガルッピ、ヨハン・アドルフ・ハッセなど錚々たる顔ぶれが指導に当たっていました。モーツァルト父子もどこかの「オスペダーレ」を訪れていることがレオポルドの手紙から窺えます。
このように、ヴェネツィアは、特異な祝祭都市、音楽都市であったわけです。
- 大運河(カナル・グランデ)
- ヴェネツィアは中世以来独立した共和国でしたが、ごく限られた名門貴族が国を治めていました。もはやその栄光は傾いていましたが、大運河(カナル・グランデ)の両岸に建ち並ぶ貴族の館では、夜毎に華やかな宴会が繰り広げられていました。
彼らは15歳になったばかりのモーツァルトを競うように招待し、歓待します。こうしてモーツァルト父子は、コルネール家、ドルフィン家など元首(ドージェ)を輩出した名門貴族の邸を、毎日のようにゴンドラに乗って訪問しています。
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