ミュンヘン 6

1780.11.14 - 1781.3.7  3.11-12

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
オペラ《イドメネオ》
ザルツブルクでコロレド大司教に仕えるようになって2年近くが過ぎた1780年秋、モーツァルトに、オペラの注文が舞い込みます。バイエルン選帝侯になっていたカール・テオドール(Karl Theodor 1724 - 1799) (下の肖像画)からでした。



カール・テオドールは、もともとマンハイムに壮麗な宮廷を営むプファルツ選帝侯でしたが、1777年、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶してしまいまた。そこで、カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承することとなったのですが、これはヨーロッパの勢力地図を塗り替えるもので、あわよくばバイエルン併合を狙うウィーンの皇帝ヨーゼフ2世、バイエルンへの領土拡張を狙うプロイセンの思惑が絡み、情勢は一気に緊迫することになりました。
結局テオドールのバイエルン選帝侯就任は、オーストリア軍のバイエルン進駐と短い戦争を交えて実現することになりますが、これは、マンハイム宮廷がミュンヘンに引っ越すことを意味しました。
こうしてカール・テオドールは、宮廷とともにミュンヘンに移ることになったのです。

テオドールから注文されたのは、オペラ「クレタの王イドメネオ」(Idomeneo) の作曲でした。1781年のカーニヴァルのシーズンのための出し物でした。
モーツァルトは、ザルツブルクに居た1780年10月から作曲を始め、11月5日にザルツブルクを出発、8日にミュンヘンに着きました。
「イドメネオ」は1781年1月には完成し、月29日に初演されました。一方、父レオポルトと姉ナンネルもミュンヘンを訪れ、初演を楽しみました。
「イドメネオ」は、トロイ戦争直後のクレタ島を舞台にしたオペラ・セリアです。宿敵トロイが陥落し、出征していたクレタの王イドメネオは帰国の途に着きますが、途中、嵐にあって船が沈んでしまいます。イドメネオは、海神に生贄を捧げると誓ったことから、物語は、イドメネオの息子の王子イダマンテ、トロイの王女イリアなどを軸に展開します。
大司教のウィーン行き
モーツァルトがミュンヘンで《イドメネオ》の作曲、上演に夢中になっていた頃、時代は動いていました。
モーツァルトがミュンヘンに到着してまもない11月29日、ウィーンの女帝マリア・テレジア(右の肖像画)が世を去っています。ここにいよいよ皇帝ヨーゼフ2世は自らの意志で改革に乗り出すことになります。
また、ザルツブルクのコロレド大司教は、父親の帝国副宰相を見舞うため、1781年1月20日、ウィーンに向けて出発しています。レオポルドは、大司教の出発を見届けてからミュンヘンに発っていますから、どこか後ろめたいところがあったのかもしれません。
モーツァルトが大司教からもらった休暇の期間は6週間でした。モーツァルトはこの休暇をそっくり作曲のために使い、大司教の不在をいいことに無断で練習と上演のためにミュンヘンでの滞在を続けました。また、父、姉と、父親の故郷アウグスブルクを訪ねています。
ウィーンに滞在中のコロレド大司教は業を煮やしたように、モーツァルトにすぐにウィーンに来るように命じます。モーツァルトは駅馬車でミュンヘンを発ちました。

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