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- 父の説得
- モーツァルトをパリに長居させていてうまくいかない、と考えた父レオポルトは、息子をザルツブルクに呼び戻し、ふたたび大司教に仕えさせようと本格的に動き始めました。
大司教やその取り巻きに対しては、おそらくはこれまでの非礼を詫び、改心させて仕事に精を出させる、と弁明したことでしょう。
しかしモーツァルトは、逆に異国の地でザルツブルクへの憎しみを深めていきました。ザルツブルクのヨーゼフ・ブリンガー師に宛てて次のように書き送っています。
「さて、ぼくらのザルツブルクの話に移りましょう! ― 最愛の友よ、ぼくにとってどんなにザルツブルクが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかりでしょう!……とにかく、ザルツブルクはぼくの才能に向いた土地ではない!これだけでも納得されるでしょう。
― 第一に、音楽にかかわる人たちがまったく尊敬されていないこと。第 二に、なにも聴くものがありません。劇場もなければ、オペラハウスもありません!―
もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるでしょうか?」(1778年8月7日付けの手紙)
一方レオポルドは、ザルツブルクの大司教コロレドに対し、モーツァルトの復職を懇願し続けていました。ほぼその見通しをつけたレオポルドは、パリのモーツァルトに対し、ザルツブルクに戻るよう切々と訴えるのですが、モーツァルトは頑なでした。
「ぼくの心のなかを打ち明けるなら、ザルツブルクが嫌いな唯一の理由は、土地のひとたちとまともな交際ができないこと、 ― 音楽がそれほど尊重されていないこと、―
それから ― 大司教が旅をしてきた聡明な人たちを信用しないことです。 ―だって、ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは)まったく哀れな人間です!
― そして、もし大司教が二年ごとに一回の旅を許可してくれないなら、ぼくはどうしても契約を受け入れるわけにはいかないと、断言しておきます。」(1778年9月11日付けの手紙)
- 「パリ・シンフォニー」
- 暗いことが多かったパリで、数少ない明るい話題は、9月8日に、モーツァルトの交響曲第31番ニ長調 KV297 が演奏され、好評を博したことでした。この明るく力強いシンフォニーは、こうした経緯から《パリ・シンフォニー》と呼ばれています。
《パリ・シンフォニー》が奏されたコンセール・スピリチェルは、当時チュイルリー王宮で催されていたコンサートで、1725年に、宗教上の理由からオペラの上演が禁止される時期に、これに代わる催しとして始められました。
海外からの演奏家も招かれ、とくにマンハイム楽派のシンフォニーが好評を博していたようです。モーツァルトの 《パリ・シンフォニー》では、マンハイム楽派が好んで使ったロケット型の上昇音型で曲が開始されますが、聴衆の好みを意識したのかもしれません。
チュイルリー王宮は、1870年のパリ・コミューンで破壊され、現在は、静かな庭園になっています。(上の写真は、MASA &YUMI HOMEPAGE からお借りしています。)
モーツァルトが複雑な想いを抱いて、パリを発ったのは、1778年9月26日のことでした。
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