パ リ 4

1778.3.23 - 8.19

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
冷たい反応
マンハイムでウェーバー嬢にうつつを抜かし、ずるずると滞在を続けていたモーツァルトに、ザルツブルクのレオポルドから雷が落ち、すぐにパリに向かうよう命じられました。
モーツァルトは素直に従い、母マリア・アンナとともに、1778年3月23日、パリに到着しました。
12年後に革命を迎えることになるパリでは、経済生活も混乱し始めていたようです。マリア・アンナの手紙からも、物価高、暗い部屋とまずい食事、にもかかわらずとても高い料金などに対する不満が切々と綴られています。
モーツァルトは神童時代に二度パリを訪れ、ヴェルサイユ宮殿を訪れ、ルイ15世と食事をともにしていますが、ルイ15世はすでに亡くなり、国王ルイ16世の宮廷からお呼びがかかることもありませんでした。
モーツァルトは、パリの演奏団体コンセール・スピリチュエルに期待していました。しかし支配人ジョゼフ・ルグロ(Joseph Legros 1739? - 1793)は必ずしもモーツァルトに好意的ではなく、作品の演奏に当たってもさまざまな妨害を受けたようです。
サロンでも屈辱的な扱いを受けました。
とりわけ、有力なサロンの一つ、ド・シャボー公爵夫人のサロンを訪ねたときの屈辱は、この誇り高い青年をいたく傷つけました。その怒りに満ちた報告によれば、暖炉もない寒い部屋で半時間も待たされ、やっと案内された部屋では、公爵夫人と客人たちが大きなテーブルに座り、1時間もの間デッサンを続けていたといいます。モーツァルトはその間ずっと待たされるはめになりました。我慢しきれず部屋のクラヴィーアを弾き始めますが、そのクラヴィーアたるや調律もしていないおんぼろ楽器でした。
モーツァルトはこのとき《J・C・フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲 ハ長調 KV179》を弾きましたが、公爵夫人も紳士たちもみんな片時もデッサンの手を休めず、絵を描き続けていたといいます。公爵が帰ってきて傍に坐り、一応熱心に聴いてくれましたが、モーツァルトの怒りは収まりませんでした。
「たとえヨーロッパの最上のクラヴィーアを与えられても、聴き手がなにもわからないか、わかろうとしないか、ぼくの弾くものを共感できないような連中なら、ぼくはまったくよろこびをなくしてしまうでしょう」(1778年5月1日付けの手紙)と、やり場のない憤りをレオポルドにぶつけています。
母の死
苦境のモーツァルトに追い打ちをかけることになったのは、母マリア・アンナ(右の肖像画)の突然の死でした。
マリア・アンナがパリからレオポルドに書き送った手紙によると、6月10日、彼女はリュクサンブール公園に散歩に行き、リュクサンブール宮でギャラリーを見物していますが、ものすごく疲れて帰ってきたようです。
モーツァルトはいつも外出がちで、フランス語をあまり解せない彼女は寂しさを募らせていったようです。
7月3日、マリア・アンナは亡くなりますが、モーツァルトは母親の死に際し、ザルツブルクに三通の手紙を書き送っています。
最初の手紙を書いたときすでに彼女はこの世にいなかったのですが、重態だと知らせ、二通目でその死を伝え、三通目で、最初の手紙が父の驚きと悲しみを和らげるための嘘であったとわびています。

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