|
- コロレド大司教の選出
- モーツァルト父子は、12月15日にザルツブルクに帰着しますが、その翌日の16日、シュラッテンバッハ大司教が亡くなりました。
多くのモーツァルト本は、この寛大な大司教の死去がいかにモーツァルトにとって損失であったかを熱っぽく語っていますが、レオポルトは、その直後、大司教の政務を代行していた司教座参事会宛てに、給料の差し止めが多すぎるので、間違いを支払ってくれるよう嘆願書を出しています。
レオポルトは決して恩義ある大司教の死に当たってひたすら涙にくれていたわけではなかったのでした。
翌1772年3月14日、ヒエロニムス・コロレド伯爵(Hieronymus Joseph Franz de Paula Colloredo 1732 - 1812) がザルツブルクの新大司教に決まりました。
訳語の「選帝侯」が示すとおり、当時の大司教は、司教座参事会の高位聖職者による選挙で選ばれました。選挙は5日間にわたり、なかなか決まらなかったようです。
コロレド伯爵は、グルクの大司教で、ザルツブルクの司教座参事会にも在職していたことがありますが、ザルツブルクにはあまり馴染みのない人物で、抵抗があったのかも知れません。
- コンサートマスターに就任
- この頃のモーツァルトの様子はよくわかりませんが、精力的に作曲を行ったようです。
1772年の初めから春にかけて、今日よく演奏される、K136、137、138の3曲のディヴェルティメントがつくられています。
5月には、コロレド大司教が着任し、モーツァルトが、劇的セレナータ《シピオーネの夢》を用意していたことがわかっています。
もともとこの作品は、前任の大司教シュラテンバッハの在位50周年記念のために作曲していたもので、これが急遽転用されたのでした。
モーツァルトは、このほか、交響曲、ディヴェルティメント、メヌエットなどを作曲しています。
8月21日付で、モーツァルトは、有給のコンサートマスターに任命されました。
モーツァルト父子は、10月24日、すでに契約済みのミラノでのオペラ上演のため、第3回のイタリア旅行に出発します。この旅行に対するコロレド大司教の反応は知られていませんが、イタリア旅行の許可はすんなり下りたようです。
次 へ
top
|