ザルツブルク 10

1779.1.15 - 1780.11.5

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
再就職
ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、レオポルトの前もっての奔走のおかげで、大聖堂の宮廷オルガニストに任命されました。このポストは、モーツァルトの旅行中、ミサの最中に急死したアードルガッサー (Anton Cajetan Adlgasser   1729 ? - 1777) が務めていたもので、しばらく空席になっていたのでした。
報酬は年450グルデン。旅行に出る前のコンサートマスターの報酬が150グルデンでしたからその3倍でした。
ザルツブルクを足蹴にして出ていったという経緯を考えれば、コロレド大司教のこの計らいは、かなり寛大なものだったと言えます。
辞令にはこうしたためられていました。

「請願者はアードルガッサー同様、大聖堂ならびに宮廷、さらに唱歌隊員養成所において課せられた職務を撓まぬ勤勉さをもって不平なく果たし、かつ、可能なかぎり宮廷ならびに教会に自作の曲を供給すること。これに対して請願者には、前任者と同様、年俸450グルデンを支給し、宮中会計局に、この年俸を月割りにて支払い、然るべき所にて引き出せるよう振り込むことを命じる」

モーツァルトには大聖堂などで演奏される教会音楽を作曲する義務が課され、いくつかの作品が生まれますが、その中では、《戴冠式ミサ》KV317 が傑出しています。



このミサ曲は、以前は、マリア・プライン教会(上の写真)にある聖母マリアの奇蹟像の戴冠式のために作られたと考えられていたことからこう呼ばれていました。
。しかし、この教会で演奏されるには楽器編成が大規模過ぎることなどが指摘され、現在ではこの曲はク大聖堂で行われた復活祭の式典(1779年4月4日か5日)のために作曲されたと考えられています。

単調な生活
モーツァルトは1年10ヶ月、ザルツブルクで過ごしますが、毎日は単調な日々だったようです。モーツァルトは、宮廷音楽家としての義務を果たすほかは、親しい友人を招いたり、友人宅を訪れて食事や射的を楽しんだり、旅先とは打って替わった穏やかな日々を送りました。ときにはかなりはめをはずしたどんちゃん騒ぎをした様子も窺えます。
1779年5月にナンネルによって書かれた日記の中には、モーツァルトの手で次のような書き込みが行われています。

「21日。6時半、ミサに。マイヤー邸と馬車道整備官のところに。午後、アクワトローノ邸に。ファゴット吹きブラウン嬢来宅。当地衣で遊ぶ。雨模様。晩はお晩になって、だんだんと着物を脱ぎ、すっぽんぽんの丸裸になる。」

この頃モーツァルトは、クラヴィーアのための作品はあまり書いていません。ただ、モーツァルト家には既にピアノフォルテが入っていたようで、レオポルドがミュンヘンのモーツァルトに書いた手紙では、家に客がやってきて、ナンネルがピアノフォルテでちょっとした曲を弾いた、という記述が見られます。

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