ヴェロナ 3

1771.8.18 - 8.20

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
真夏のヴェロナ
二度目のイタリア旅行に旅立ったモーツァルト父子は、インスブルック、ボルツァーノ、トレントと第1回と同じルートを通り、8月18日にヴェロナに到着しました。
レオポルドは、ヴェロナから、立ち寄った場所でのこまごまとしたことを、ザルツブルクの妻に書き送っています。(1771年8月18日付け)

カイトゥルでは、 「御者が馬に秣をすこしばかりやっているあいだに、肉を1,2切れ立ち食いし、加えて、とても上等なメルツェrン・ビールをジョッキ1杯飲んだ」
ヴァイドリングでは、「私たちはスープ1杯飲み、それに加えて、げっして悪くないザンクト・ヨハン・ビールを飲んだ」
ザンクト・ヨハンでは、「夜食をとった」
そして、「14日には、クンドゥルの宿駅で、また、夜には、インスブルックで食事をとった」
15日には、「お昼にシュタイナハ、夜にはブリクセン(ブレッサノーネ)に着いた」
16日の「お昼にボーツェン(ボルツァーノ)、夜にはトレントに到着」
17日の午前9時には、ロヴェレートに到着。夜にヴェロナに到着した。



真夏のヴェロナは、かなりの暑さだったようです。旧知のルジアーティ邸で荷物を解いたレオポルトは、モーツァルトに昼寝するように説き伏せ、自分はザルツブルク宛てに手紙を書きますが、当のモーツァルトは、食後の睡眠はすきじゃない、と書き送っています。
レオポルトは、この手紙の中で、ヨーゼフ・ハイドン、ヴァーゲンザイル、アードゥルガッサーのトリオ、ルティーニのソナタを送ってくれるよう頼んでいます。
城壁
ヴェロナ1 でも触れましたが、ヴェロナは、アレーナ(円形劇場)で知られる街です。
ゲーテが《イタリア紀行》で指摘しているように、このアレーナは、18世紀後半の当時、ヴェネチア共和国とオーストリア領との国境の目印になっていたようで、街の周囲を取り囲む堅固な城壁が残されています。(右の写真)
この辺りでは、古くから国と国、都市と都市との間で激しいせめぎあいが繰り返されてきましたが、モーツァルトが訪れた18世紀後半は、平和な市井の暮らしがあったようです。

ゲーテは、『イタリア紀行』でヴェロナのことを記しています。
「広場は市の日にはいっぱいの人出だ。見透しがつかぬくらいの野菜と果物、堪能するほどの大隷(にんにく)と球葱(たまねぎ)。そのうえ一日じゅうわめいたり、ふざげたり、歌ったり、さらにまたたえまなく、殴り合ったり、摘み合ったり、鬨の声を上げたり、笑ったりする。温和な気候、安価な食物が、彼らの生活を安易にするのである。誰だろうと、いやしくも出られるものは、みな戸外に出ている。
 やがて夜になると、いよいよ放歌高唱が本式に始まる。マールボロの小唄は町の辻々にきこえ、それからシン入ルにバイオリン。口笛であらゆる鳥声の真似をする。怪しげな物の音が到るところに耳朶を打つ。温和な風土はこういう生活の余裕感を貧者にも賦与しているのである。それに民衆の屑のような人々の生活も、まったく捨てたものではないように見える」(ゲーテ『イタリア紀行』上 79頁)

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