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- 繁栄する音楽都市
- パリを発ったモーツァルト一家は、船酔いに苦しみながらもドーヴァー海峡をわたり1764年4月23日、ロンドンに着きました。
当時ロンドンは、パリと並ぶヨーロッパ最大の音楽都市でした。ジョージ3世(左の肖像画)の宮廷は音楽を愛好して保護し、コヴェント・ガーデン王立歌劇場でのイタリア・オペラの上演をはじめオペラやオラトリオは全盛を極めていました。
また、器楽音楽を取り上げる数多くのコンサートが開かれ、私的な会合でも貴族や上流階級が自ら楽器を手に取ってアンサンブルを楽しんでいまた。このような音楽文化の輝きの背景には、イギリスの未曾有の繁栄と安定がありました。
ザルツブルクから出てきたレオポルドは、ロンドンの賑わいや豊かさに驚き、水揚げされる魚の種類や量に至るまで細々と書き送っています。
当時のロンドンでは、パリのコンセール・スピリチュエルに匹敵する公開コンサートが盛んに開かれていました。次々に演奏会場もつくられ、これらの会場で幾つかの有力な音楽団体が演奏会を運営するようになっていきました。モーツァルト姉弟は、そうしたホールのひとつ、ヒックフォード・ルームのメイン・ホールでコンサートを開き、成功を収めています。
- J・C・バッハとアーベル
- こうした公開演奏会の中で最も知られているシリーズが、ヨハン・クリスティアン・バッハとカール・フリードリヒ・アーベル(右の肖像)によって行われたバッハ=アーベル・コンサートです。これらのコンサートでは交響曲や協奏曲、声楽曲のほかに、クラヴィーアのためのソナタや室内楽も演奏されていました。
ロンドンでは、楽譜の出版も極めて盛んでした。ジョン・ ウォルシュ、J・ウェルカーなどの出版社が競い合うようにして沢山のソナタを出版していました。そして、このようにして出版されたソナタが想定していた楽器は、1760年代の後半にはチェンバロからピアノ・フォルテへと移っていったようです。これらの楽譜出版は、家庭音楽の普及に支えられていました。
クラヴィーアのための連弾曲は、この時期にロンドンで書かれるようになった新しい音楽ジャンルで、1765年にここロンドンで作曲されたと考えられているモーツァルトの《四手のためのクラヴィーア・ソナタハ長調 KV 19d》は、その最も早い例です。
- バッキンガム宮殿
- ロンドンに着いたモーツァルトたちは、さっそくバッキンガム宮殿に伺候します。当時のイギリス国王はジョージ3世でヘンデルの音楽を深く愛好していました。
また、王妃シャーロット・ソフィア(左の肖像)は、ドイツのメクレンブルク=シュトレーリッツの王女で、このように当時の王室はドイツ人音楽家に好意的だったようです。
二度目にバッキンガム宮殿に招かれた5月19日、モーツァルトは、王妃シャーロットが歌ったアリアにその場で伴奏をつけたり、たまたまそこに置いてあったへンデルのアリアの譜面を見つけ、ヴァイオリンで弾かれるバスの上に、美しい旋律を即興で演奏したと言います。国王夫妻や取り巻きたちに超人的な即興の才能を披露したわけです
この場には、王妃シャーロット・ソフィアの音楽教師、ヨハン・クリスティアン・バッハがいました。モーツァルトが後に大きな影響を受けることになる音楽家との出会いでした。
モーツァルト一家のロンドン滞在は、翌1765年の7月まで、1年3ヶ月にも及んでいます。バッキンガム宮殿に伺候するほか、コンサートを開き、たくさんの作品をつくり、優れたクラヴィーアに触れたり、とても充実した期間を過ごしました。
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