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- 少年音楽家
- ウィーンから戻ったモーツァルトは、まもなく7歳の誕生日を迎えました。
そして、2月28日には、シュラッテンバッハ大司教の誕生日に、チェンバロとヴァイオリンを演奏しています。
レオポルトから、「ナンネルの楽譜帳」などでチェンバロの手ほどきを受ける一方、もう少年音楽家としてザルツブルクで演奏をしていたようです。
「ナンネルの楽譜帳」で音楽の基礎をひととおり習い終えたモーツァルトは、続いて同時代の作曲家の本格的な作品を勉強していったことでしょう。
レオポルドがどのようなクラヴィーア音楽を知っていたのか、モーツァルトが幼年時代に耳にしたクラヴィーアのための作品はどのようなものだったのか ―
それを窺わせる有力な材料は、ニュルンベルクの出版業者、ヨハン・ウルリッヒ・ハフナーによって出版された曲集です。ハフナーの曲集には、当時のヨーロッパ各地で活躍していた音楽家によるクラヴィーア作品が収められています。そこには、レオポルト自身の作品も含まれていました。
ザルツブルクという小宇宙にいたモーツァルト父子でしたが、その多くの音楽家たちに、旅行先で出会うことになるわけですが、外の世界に出る以前に、すでにいわば予習をしていたということが言えると思います。
- ザルツブルクの音楽家たち
- ザルツブルクには、長い教会音楽、世俗音楽の伝統がありました。
モーツァルトが生まれた18世紀半ばを代表する音楽家は、ヨハン・エルンスト・エーベルリーン(Johann Ernst Eberlin 1702 - 62)でした。彼は大聖堂のオルガニストであり、1749年に大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハから宮廷楽長に任命され、亡くなるまでその地位にありました。エーベルリーンは、数百曲のミサ曲、レクイエム、モテト、セクエンツィア、リタニア、晩課の詩篇、テ・デウムなど数多くの教会音楽を作曲しました。
エーベルリーンが亡くなると宮廷楽長の地位はヨーゼフ・ロッリが継ぎましたが、実質的にザルツブルクの楽壇をリードしていたのは、エーベルリーンの弟子で娘婿のアントン・カエタン・アードルガッサーとレオポルド・モーツァルトでした。アードルガッサーは大聖堂のオルガニストであり、レオポルドとも親交がありました。
- 大聖堂
- モーツァルト一家は、音楽に身を捧げる一方、大聖堂、聖ペーター教会、聖三位一体教会などで祈りを捧げましたザルツブルクを象徴する建造物、大聖堂 (右の写真)は、1628年、ローマの聖ピエトロ大聖堂を模して建築され、宗教国家ザルツブルクの精神的な中心となりました。
モーツァルトの時代には、宗教国家ザルツブルクはカトリック一色の世界でした。
1731年、ザルツブルクの領内からはすべてのプロテスタントが追放されていました。
ユダヤ教徒は、はるか中世に追放されています。
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