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- マリア・テレジア女帝
- 10月6日、モーツァルト一家は、ウィーンに到着します。当時のウィーンは、ハプスブルク家のオーストリア帝国の首都でした。下の絵は、18世紀のウィーンを描いた風景画です。
オーストリア帝国の女帝はマリア・テレジアでした。
1740年、カール6世が亡くなり、長女マリア・テレジアが家督を相続しますが、このとき列強が介入します。とくに、プロイセンの フリードリヒ大王は、現在のポーランド西部に当たるシュレジアに侵入し、オーストリア継承戦争が始まりました。フランスやバイエルン選帝侯もオーストリア帝国から領土を獲得しようと動き出しました。
マリア・テレジアは、プロイセンなどと戦い、オーストリア帝国を守り抜きます。夫のフランツが 神聖ローマ帝国皇帝として即位し、以後ふたりは、共同統治者のような形で、内政の充実、軍備の増強などを図りました。
しかし、プロイセンに奪われたシュレジア地方はそのままだったので、女帝は、これを奪回すべく、フランス、ロシアと三国同盟を結びます。女帝の意図を察したフリードリヒ大王は先制攻撃をしかけ、モーツァルトが生まれた1756年に七年戦争が始まりました。一時はプロイセン軍を追いつめますが、結局シュレジア地方の奪回は成功せず、講和が結ばれました。
マリア・テレジア女帝と皇帝フランツ1世の間には、16人の子供が生まれました。
皇子たちの中では、フランツ1世の死後ヨーゼフ(右の肖像画の一番右側)が皇帝に即位し、1780年に女帝が亡くなるまで共同統治、女帝の死後は、自らの意志を明確にして、改革に努めることになります。モーツァルトがザルツブルクの大司教と決裂してウィーンに移り住むのは、1781年のことです。モーツァルトとヨーゼフ2世は深い関わりを持つことになります。
フェルディナントは、オーストリア領ロンバルディアの大公としてミラノに赴きます。フェルディナント大公の結婚式のために作曲された祝典劇が、モーツァルトの《アルバノアスカーニョ》です。
レオポルトは、フィレンツェに赴き、トスカナ大公となり、ヨーゼフ2世の死後はレオポルト2世として即位しました。
皇女の中では、マリー・アントワネットは、フランスとの同盟のためにルイ16世と結婚し、革命の中で悲劇の最期を遂げることになります。
- シェーンブルン宮殿での演奏
- モーツァルトとナンネルは、10月13日、シェーンブルン宮殿 (右の写真)で、女帝マリア・テレージア、皇帝フランツ1世の御前演奏しました。
右の絵は、このときの謁見と演奏の模様を、後に1870年頃、エドアルト・エンダーという画家が描いたものです。
このとき、マリーアントワネットがいたと伝えられ、宮廷音楽家、ヴァーゲンザイルもいて、モーツァルトは譜めくりを頼んだというエピソードも伝えられていますが、真偽のほどはわかりません。
この後モーツァルトは重い病気に罹り、一時、ブラチスラヴァに滞在します。(上記のウィーン滞在期間には、この期間も含まれています。
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