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- 宗教国家ザルツブルク
- ザルツブルク ― 多くの文人たちによって詩的な文章が捧げられているモーツァルトの街です。 ザルツブルクは、今日では、オーストリア共和国の一つの地方であり、その中心都市がザルツブルク市です。
18世紀のザルツブルクの光景は、今とはさほど違っていなかったと思われます。(左は、その頃のザルツブルクを描いた絵です。)
しかし、今日と違っていたことは、この魅力ある街を中心とする一帯が、当時、一つの独立した国家であったということでした。
この時代ドイツは、さまざまな国家に分かれていました。広い意味でのドイツ ― つまりドイツ語を話す人々が支配的な地域を広い意味でのドイツということにしますと
― ドイツは、当時統一された国家でありませんでした。
オーストリア帝国とプロイセン王国という二つの傑出した存在はありましたが、ドイツ全体としては、多くの領邦が分立して共存し、あるいは争っていました。
その一つの国家がザルツブルクでした。
ザルツブルクは、ザルツブルク帝国領主大司教領と呼ばれ、カトリック教会の大司教が統治する、一種の教会国家でした。大司教は、ローマ・カトリック教会の大司教であると同時に世俗社会を支配する領主でもありました。
今日このような宗教国家の形態は、ローマ市内にあるバチカン公国以外には存在しません。
- 「ザルツブルク帝国領主大司教領」
- この「ザルツブルク帝国領主大司教領」という呼称は、この小さな教会国家が神聖ローマ帝国に直属することを表しています。10世紀にドイツを統一したオットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の冠を受け、以後ドイツは神聖ローマ帝国の呼称を持つことになりました。間もなく神聖ローマ帝国は分裂し、以後その存在は名目的なものとなり、1438年以降オーストリアのハプスブルク家がこの帝位を継承していくことになります。
もはや中世の強大な統一帝国は存在しませんでしたが、神聖ローマ帝国皇帝の呼称は、ハプスブルク家がヨーロッパ屈指の名門であることを示すシンボルでした。
ザルツブルクの帝国領主大司教という呼称は、ザルツブルクが中世の昔から存在する神聖ローマ帝国に直属する独立の国家であり、形式上はその一部であるオーストリア帝国と対等の独立した国家であることを示していました。 ザルツブルクの大司教は、高位の司教から構成される教会の聖堂参事会での選挙によって選ばれていました。
こうしてザルツブルクでは、オーストリア帝国からもローマ教皇からも独立した国家経営が行われていました。もっとも人的な結びつきはどちらとも緊密であり、ザルツブルクの人々による独立した国家経営が行われていたわけではなかったようです。
- モーツァルトの誕生
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ザルツブルクの中心地,ゲトライデ・ガッセにモーツァルトの生家が残されています。
家主は食料雑貨商∃ハン・ロレンツ・ハーゲナウアー(1712-1792)でした。
モーツァルトの父で宮廷楽団の若い奏者レオポルド・モーツァルトは、1747年、妻のアンナ・マリアとともに引っ越してきました。
この建物の三階がモーツァルト家の住居で、台所、控えの間、居間、寝室、書斎がありました。
ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日にこの家で生まれました。
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