北斎

「ルナの会」の月例会に参加。
今日は、ブリヂストン美術館ホールで、島根県の葛飾北斎美術館館長の永田生慈先生による葛飾北斎のレクチャーを拝聴しました。

広重と北斎の差もよくわからないほど「浮世絵」に無知だった私ですが、大変楽しくあっという間の2時間でした。

北斎の90歳の人生を7つの時代に分けてご説明くださり、エネルギッシュな北斎の人生、そしてスケールの大きな北斎の人柄についてお話しくださいました。

江戸本所割下水に1760年に生まれた北斎、来年がちょうど生誕250年にあたります。
モーツァルトより4歳年上ですが、亡くなったのがショパンが亡くなったのと同じ1849年。
人生50年という時代に90歳という長寿を全うした凄すぎスーパーマン絵師です。

19歳で役者似顔絵師の勝川春章に弟子入り。
優等生的な弟子ではなかったようで、反目している流派のやり方で役者絵を描いたりして35歳で破門され39際で独立。自らの道を歩み始めます。

45歳から読本の挿絵を描いたりして一躍人気を博したそうです。
当時滝沢馬琴の文章&北斎の挿絵の組み合わせで読本が進んでいたとき、二人が大喧嘩。出版社は、なんと北斎の挿絵のほうを残して文章をほかの人に書かせたなんてエピソードもあるくらいの人気だったそうです。
墨一色の木版画でありながら、点々の密集具合で質感や立体感を表現しています。
それに、ほれぼれするような艶っぽいトップレベルの美人画も残しています。それまでのうりざね顔の細い美人画でなく、強い線の美しさです。

中国風の砂の描き方、洋画に見られる遠近法を使った風景、そして人物は日本画といった具合に、「漢、洋、和の混用」の絵も残っており、ジャンルにこだわらないあらゆるテクニックをマスターしていたことがわかります。

51歳からは多くの弟子のために「絵手本」を編纂。教育者としても活躍。
コンパス、直線での描き方に始まり、太った人、やせた人の書き方まで、抱腹絶倒の面白さ。
この頃、染師のためのデザインや梵鐘のデザインなど、絵師を超える仕事までこなします。
さしずめ、江戸版レオナルド・ダ・ヴィンチというところでしょうか。斬新かつ普通の人が思いもよらないようなアイディアで次々に新風を巻き起こします。

私たちが絵葉書などで知っている富士山の浮世絵、滝の絵などは、72歳から74歳という数年に描かれたもので、それは、北斎のごくごく一部にしかすぎません。
6歳から写生し、90歳で亡くなる間際まで描き続けた努力の人、北斎の並外れたエネルギー。そして多くの学者や政治家が慕ってきたという知性と魅力的な人間性。

おそるべきは、75歳のときに自らを「画狂老人卍」と号し、「これからの人生、師匠は自然。新しい境地を開いていく」という決意をあらたに、精力的な活動を続けるのです。まさに30代のベートーヴェンのようです。

晩年は、この世の世界でを描く浮世絵から遠ざかり、故事の世界、宗教的題材、そして動植物などを描く対象にしていきます。
毎日日課として獅子を描き、まるめてゴミ箱に捨てていたそうですが、それを出戻りの娘が1枚1枚拾って紙を伸ばしてとっておいたものが300枚ほど。
晩年、筆にまったく衰えがなかったこと、そして北斎のユーモラスな感覚などの証明画として私たちに、笑いと勇気を与えてくれます。

さまざまな名所を描いた広重に対し、特段名所でなくとも見る角度を変えることによって斬新な絵を描いた北斎の感性。
永田先生によると「天才ではなくコツコツ型」だそうですが、新しいものを取り入れ努力を怠らないエネルギーは、はんぱじゃありません。

飢饉や大火などにもめげず、江戸を生き抜き、さまざま経験を重ねながら、描きに描きまくった北斎に敬礼!の一日でした。
「40代になるとさぁ、体力的にきついよね・・・」なんて台詞を近頃楽友がこぼしたりしますが、北斎にぶっとばされる台詞といえましょう。

「画狂老人卍」ならぬ「音狂老人卍」目指してフレーフレー!

2012年開館を目標に準備が進められている墨田区北斎館。
元気がない日、勇気を失いかけたときなど絶対に訪れたい美術館といえましょう。

ブリヂストン美術館から車でわずかの距離にある東京銀座画廊の墨画展へ。
タイムリーなことに、一昨日の青藍で墨画展のご案内をいただいていましたので、江戸から現代へスリップし、現代の墨画の世界にひとっ飛び。

その絵の前に立つと音がなくなり、静寂の中でその表情が浮かび上がるような神秘的な絵もあれば、墨にミモザの鮮やかな黄色を混ぜたり、ウバユリの見事な色合いを墨一色の世界に加えたりというインパクトの強い作品もあり、墨画といってもその個性はさまざま。

たくさん色を使う水彩や油絵に比べて、使っている色が少ないのに、というか少ないからこそ想像力によって無限に色が広がっていくような気がしました。

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