「円熟する」ということについて(その3)

近くの居酒屋に行き、煮込みを注文しました。
あっさりした味わいの煮込みで、日本酒によく合いました。
私は煮込みが大好きというわけではありませんが、ときどき、お酒の肴に頼むことがあります。店によって微妙に、ときには大きな味の違いがあり、興味が尽きません。
都内にはたくさんの煮込みの名店があるようですが、その中でも、北千住の「大はし」、月島の「岸田屋」、森下の」「山利喜」の三軒はとくに有名で、「東京・三大煮込み」と呼ばれることがあると、聞いたことがあります。
私はこの三軒、すべてお邪魔しました。
確かに、味はそれぞれ全く違っていて、独特の個性を出していました。
「大はし」は、まさに煮込みの王道を行っているという感じ。岸田屋はずいぶんこってりした濃いめの味付け(下の写真)、山利喜は、もはや煮込みの域を超えた洗練された味わいだったように記憶しています。
kishitaya

それにしても、それぞれ独特の味は、どのようにして発見され、あるいは生み出され、つくりあげられてきたのだろうか、と、ふと思います。
ある日、インスピレーションがひらめいて、突然完成されたのか、長い間の試行錯誤の末にできあがってきたのか、独創的な料理人による芸術品なのか、お店のみなさんが味わい、品評し合い、相談しながらつくりあげてきたのか。
そして今できあがった味は、これからどこに行くのでしょう。
さらなる高みを求めて、いろいろな努力が重ねられていくのか、それとも、今の味を守り続けることに注意が傾注され、崇高なる反復が続いていくのか。
それぞれのお店の名品たる煮込みの円熟は、これからどのような道行きをたどっていくのだろうと、三軒とはまた異なる煮込みを味わいながら思いました。

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