庭園想楽

庭園想楽オンライン・レクチャーにお邪魔させていただきました。講師は堀朋平先生!
「実証のむこう シューベルトと神学・精神分析のまじわり」と題して、前半は、「伝記」や「情報」がどこまで客観的でありうるのか、後世の研究者・演奏家はどのように仮説に向き合うのか、など18世紀中ごろの時代背景なども交えてお話しくださいました。後半は《未完成交響曲》を読み解くにあたり、作曲年代の謎、神学的 精神分析的な視点と解釈が展開されました。

当時の絵画、資料、自筆譜、五線紙の透かし模様、歌曲に登場する旋律との類似性や多用されるリズムの意味など様々な論拠を示され、シューベルトへ肉薄する想いの強さがインターネットを通じてもひしひしと伝わります。時間制限が無ければこの1000倍、2000倍の情報量があふれ出すことでしょう。


シューベルトの親友である画家、クーペルヴィーザーの興味深い絵もいくつかご紹介くださいました。

作曲家星谷丈生先生の見事な進行により、密度の濃い2時間が繰り広げられ、質疑応答タイムでは、音楽学の上田泰史先生、作曲の渡辺俊哉先生、指揮者の石川征太郎さん、ピアニストの佐藤卓史さんら、久しぶりにお顔を拝見でき嬉しかったです。

研究者が解釈しその音楽に意味付けをすることで、それに限定されてしまうことへの危険性、その通りに演奏しようとすることへの危惧などが俎上に。「たびたび出てくる音型が、作曲家の単なる書き癖なのか、意図によるものなのか、規定してよいものか」「たとえばシンコペーションのリズムを”足を引きづるように”という解釈に縛られて弾くとおかしな演奏になってしまう!」等々。この問題については、レクチャーのあと一晩語りあっても「結論」は出ないのかもしれません。

レクチャーの後、「”演奏する”ということは”解釈する”と同義語。」というウィーンの師匠、イエルク・デームス先生の言葉を思い出しました。
風をイメージして弾くのか、単なるスケールとして弾くのかでは音色が異なりますし、つまらない同音反復として弾くのか恋人の家の扉をノックする音として弾くのかでは音への愛が変わります。

楽園、喪失、さすらい、孤独、魂の帰昇、、、。意味を規定してしまうことへの疑問符も打たれましたが、解釈せず「単なる音型」として片づけてしまう怠慢から生まれる無味乾燥な演奏の方を危惧するべきではないか、と個人的には思った次第です。

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