前事不忘、後事之師

77回目の終戦記念日。

私の母は4人兄弟の長女として満州の大連に生まれました。発電所建設の技術者だった祖父は、庭に水を撒き、氷点下の寒さで凍てつく自家製リンクでフィギアスケートを教えてくれたそうです。母は小学校6年生のとき奉天(今の瀋陽)で終戦を迎えましたが、ソ連軍の侵攻を逃れて引き揚げた時の恐怖の体験を時折話してくれます。母親は頭を坊主刈りにして幼子の手を引き、各々靴の中にナイフを隠し夜道を逃避行。命からがら船の貨物室に乗り込んだそうです。

私がロシアのコンサート・ツアーにでかけたときも、瀋陽の演奏会に出演するときも大反対したのは、おそらくその時の心の傷が深いせいでしょう。
叔父は、私の母のことを「おねえ」と呼んでいますが「まだ赤ん坊だった俺をおぶって逃げてくれたおねえがいなかったら、俺は残留孤児になっていたから」といまだに「昔の恩」を語り、いつも母を気遣ってくれます。先々月、鎌倉での演奏会の前日に母が救急車で運ばれ病院に行ったときも、付き添ってくれたのは叔父でした。満州の時とは逆に、今度は母の命を助けてくれている叔父です。

先日、傀儡国家「満州国」の13年間のことを少しでも知るために、満蒙開拓平和祈念館を見学しました。

2013年に開館した満蒙開拓平和祈念館は、長野県下伊那郡阿智村にあり、満蒙開拓団として「満州国」に送り出された農業移民の地獄絵のような歴史が記録されています。大量移民計画という「国策」のもと製作された多くのプロパガンダのポスターも展示されていました。日本から「満州」という新天地に向かった27万人の人々。長野県からは約3万3千人が送出され、全国で最も多い数に上っています。そのうち半数の方しか帰還できなかったという重い事実に言葉もありません。

体験した方々の証言には、衝撃を受けます。「満州に行くのを躊躇っている少年を励まして送り出してしまった」「行きます、というまで3日間廊下に立たされた」「それぞれの村にノルマがあり断れなかった」「姉が中国人の嫁となることで家族が救われた」等々、それぞれのお立場での苦渋の日々が語られます。

私が小・中・高校の頃の「日本の歴史」の授業は縄文、弥生時代がやたらと丁寧で、毎年、近代、現代に入る直前で「時間切れ」となり「自習しておくように」というピリオドが打たれました。自習を怠った私は、この年で、未だ知らない事が多すぎて恥ずかしくなります。

歴史に学び、教訓とする「前事不忘、後事之師」の精神が、今こそ求められている気がしてなりません。

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