「世界の名器・聴き比べ」

ホームグラウンドである セレモアコンサートホール武蔵野 で、4台の楽器を使っての演奏会をさせていただきました。
歴史的楽器は、生きて現在そこにある、というだけで奇跡のような存在。楽器のロマンです。お世話になっているさまざまな方に感謝しながら弾かせていただいています。
プレイエル、エラール、ベーゼンドルファー、スタインウェイ ― それぞれ個性の違う楽器たち。だんだん、各人の癖もわかってきたところですが、ご機嫌の良しあしは、微妙に変化する4人です。

先日、京都で弾かせていただいたあと、Q&Aコーナーがありました。
「行った先のピアノが家のピアノと違ったりすると弾きにくいのですが、どうしたらよいでしょう」という質問。
たしかに、ヴァイオリン、フルートと違って、ピアノは、練習ピアノと本番のピアノが違うことがほとんどです。
答えになっていたかどうかわかりませんが、
「なるべく違うタイプのピアノをいろいろと弾く機会を作るとよいのではないでしょうか」とお答えしました。
楽器店などでも試弾の機会が多く与えられていますし、たとえば、国立音大でも楽器資料館は、毎週水曜日に試弾できる楽器を公開していて、試弾自由の楽器が提供されています。
楽器の個性は極端に違っていることがあり、また、19世紀と20世紀のピアノは同じピアノとは呼べないほどすべてが違います。たくさんの楽器を弾いているうちに、同じメーカーでの微妙な違いくらいでは驚かなくなってきます。

モーツァルトはおそらく旅先で様々な楽器に触れていました。次々に新しい楽器が生まれ、革命的に楽器が変化していった時代に生を受け、それらへの対応力が否応なく求められていたと思います。おそらくまれにみる楽器への順応力があったのではないだろうかと想像します。
私たち、現代に生きるピアノ奏者は、ブレや誤差の少ない楽器に恵まれた時代に生きています。その結果、同じような画一化された楽器にいつも触れることが多く、ちょっとでも違うと
「違う!」
と感じ、少しでも調整が悪いと不快に思うようになっています。
ピアノの歴史300年のうち、最初の200年は、ほとんどが手作りだった時代。製品というより、工芸品に近い感覚だったのかもしれません。ピアニストと職人の間のバトルが繰り広げられながら、どんどん発展していった過程の中で、マシンとしての要求度はどんどん高くなり、誤差が許されなくなっていきました。
そのような中で、大らかにあるがままの音に耳を傾け、微細な変化を感じ取ることができる耳や感性は失われていったのではないでしょうか。
それらはとても大切なものだったのかもしれませんし、現代においても、少し心がければ蘇らせることができるのではないでしょうか。
今日お聴きくださった国立の皆様には、19世紀のパリのサロンで楽しんでいただくような時間を過ごしていただきたいと思って弾かせていただきました。
オイルランプと蝋燭くらいの明るさに落とした中で聴いていただくショパン。サロンの雰囲気でのモーツァルト。色と光のドビュッシー。

大ホールで弾くときとはまた違う、サロンのお客様との気持ちの交流。
かすかな響きを感じあうことのできる距離感。
そういったものも大切にしながら、音楽を奏でていきたいと思っています。

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