ないのと同じ

2月22日は、礒山雅先生の命日でした。
ベーゼンドルファーの柔らかな音色をお好きだった先生に、葛飾北斎の絵が描かれたピアノの音色もお聴きいただきたかったと思いました。

礒山先生が国立音大附属図書館長を務めておられた1999年から2007年にかけてご執筆されたエッセイ集が、昨年お弟子さんの飯山かおりさんの手によって「館長室便り」として編集されました。

どのページからも礒山先生のお声が聞こえてくるようで懐かしく、時には耳が痛く、時には先生のユーモアに和み、そして含蓄のあるお言葉に感じ入りながら拝読した次第です。

その耳が痛い頁の一つに「ないのと同じ」というエッセイがあります。
先生が「捨てる技術」を説いておられるのですが、「長いこと使ったことのない資料は、なかったのと同じである。それらは空間を無駄にし、またモノ探しを困難にして時間の浪費をまねいたという点で、有害であった」を原則にされたそうです。「残すべきか、捨てるべきか迷ったときは、必ず捨てる」を実践された結果、「書斎がスリムになり、息を吹き返した」とのこと。

私事ですが、昨年12月の引っ越しに伴い、楽譜や身の回りの物をだいぶ整理しました。
これまでの演奏活動や大学の授業の記録、研究資料など、段ボールを開けても開けても次々に現れる膨大な紙の山に呆然としながら、ようやくひと段落ついた感がありますが、「捨てる」という面では、まだまだ先生の域には達しておらず、散乱していたものを整理した程度。

たしかに長いこと使ったことのない資料は「ないのと同じ」なのですが、長いこと弾かなかった曲でもいつか弾くかもしれない、やっと手に入れた貴重な資料は捨てるには惜しい、指遣いを苦労して考えた楽譜には愛着がある・・・などと思ううちに「捨てる」手が止まってしまうのでした。もともと過去を振り返らないたちなので、想い出やノスタルジアに浸るということはほとんどないのですが、恩師からの手紙や、楽友との写真や、こんな曲弾いてたんだ?!という過去のプログラムが、長い時間を経て出現すると、しばし見入ってしまうこともありました。

主人は「捨てる」名人。机の上はいつもすっきり整理されています。それに引き換え、捨てるのが苦手な私はいつも「捨てなさいよ!」と言われ続けてうん十年になります。親しいお友達のAちゃんは、
留学先から帰ってくるときに「断捨離」ではなく「全捨離」をしたそうです。思い切りの良さに拍手喝采した私ですが、「ないのと同じ」という心境になるまでには、あと数年はかかりそうです。

コメント