不協和音とは?

今日は節分。子供の頃は、鬼のお面をかぶったり豆まきをしたりして盛り上がりましたが、最近は、炒った大豆をちょこっと食べておしまい。簡素化の一途をたどっています。

ところで、先日ピアノを始めたばかりの子供の言葉でハッとしました。小さな曲の中で「不協和音」が出てきた時、「ここで気持ち悪くて息が止まりそうになるから弾きたくない!」という言葉。「不協和音」について何も知らなくても繊細な耳と感性を持っていれば、機能和声の機能に心は動かされるのです。

神童モーツァルトは幼い頃、クラヴィーアで3度(ドとミなど鍵盤上で一個飛ばしの音)の美しい協和音の響きを探して、楽しんでいたと伝えられています。現代の平均律に比べて当時の古典調律が施された楽器では、3度の響きは今以上にピュアでした。後に作曲した作品の中にもこの愛する3度音程は無数に出てきます。

けれど、透明感に溢れたモーツァルトの曲の中には、これまた無数に不協和音が出てくるのです。もしも協和音だけで音楽ができていたら、退屈で平板になってしまうからです。シューベルトは心の痛みを2度(鍵盤上の隣同士の音)の不協和音のぶつかりや濁りで表現しました。

そしてウィーンの巨匠、イエルク・デームス先生は「罪(つみ)の味は、密(みつ)の味」と覚えたての日本語で冗談を言っておられました。不協和音は「罪」の音。「さかさかと通り過ぎず、その響きをじっくり味わってから次に進むように。その不協和音には意味があり、その意味を感じ取ってから次に解決せよ」と。

いつしか、毎日毎日音楽を奏でる中で、この不協和音は私の中で、珈琲の苦みやワサビの辛味と同様に、当たり前に存在する音となり、むしろ表現上、不協和音は不可欠な音になっていることに気づきました。「この音は弾きたくない」などと言っていられません(笑)。

「気持ち悪い音」と言われてあらためて不協和音の原点に返った気持ちがしました。

アルモニオーソ(調和に満ちて)という音楽用語があります。異なる音が重なり、一つの響きとして調和する世界。

不協和のニュースが連日流れています。派閥抗争、国際的な緊張関係、利権を巡るいざこざ等々。
アルモニオーソの日々を音楽家として願わずにはおれません。

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