円熟すると言うことについて(その5)

7月18日に、学内で研究会があり、「モーツァルト・ピアノ演奏法 ~楽器と作品~」と題し、ピアノを弾きながら、お話をさせていただく機会に恵まれました。楽器学の森太郎先生とご一緒させていただくことができましたので、私自身、とても有意義でした。

研究会の中で、《デュルニッツ・ソナタ》を取り上げ、当時、モーツァルトが使っていた楽器と作品の関係について少し触れさせていただきました。
たとえば、第1楽章124小節では、提示部の音型から見て明らかに上のファ♯、そしてラの音まで上がるのが自然なのに、モーツァルトは、そうせず、1オクターブ下のラに降りてきてしまいます。これは、当時の楽器がファまでの音しかなかったからではないか、そうすると、現代の楽器で弾くときでは、1オクターブ上で弾く方が、モーツァルトの意図に叶っているのではないか。
私はCDでもそうして弾いているが、こういう風に弾いている人は、私が知る限り誰もいない、といったお話をさせていただきました。
同じようなことは、バッハにもシューベルトにもあります。
バッハの場合、鍵盤の都合で降りざるを得なかった、ということがわかっていても、それはそれで美しい旋律になっており、どちらも捨てがたくますます迷ってしまいます。
シューベルトの場合、校訂をされたバドゥラ・スコダ先生が
「当時の下の鍵盤が足りなくて上にいった場合は、自分は下に1オクターブおろして弾くが、上の場合は、そのままにする。なぜならば現代の楽器の高い音は金属的で、響きがシューベルトから離れる」
と注意書きで書いておられます。

そこで、失礼を顧みず、会場にいらした、スコダ先生のお弟子さんでもあられる今井顕先生に、「どう思われますか?」と質問させていただいたのです。
今井先生は、
「現代の楽器で弾く場合、当時の楽器の音域の限界のせいでそうなった部分を現代のサイズに合わせる ― そのような考えもあるのかも知れないし、否定もしないが、作曲家は、楽器の限界というものをいやでも意識し、それを前提として、ぎりぎりの表現をしたはずなので、現代の楽器の音域が拡大しているからといって単純に自動的に1オクターブ上で弾くのがよいとは思わない」
といった趣旨のお話をされました。

突然のおたずねにも拘わらず、実に、含蓄の深いお応えが返ってきて、感銘を覚えた次第です。
今井先生が、つねに作曲家の意図をどう現代の楽器で表現しようとするのかを考えておられることがよくわかりました。
当日は、自分の演奏とお話をするのがせいいっぱいで、今井先生とのやりとを忘れてしまっていたのですが、きょう、シューベルトを練習していて、今井先生の言葉が蘇りました。
先生の演奏の円熟は、楽器と作品への問いかけを繰り返しておられるところからもたらされているのでしょう。

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