円熟するということについて(その4)

きょうも雨が降っています。
雨の音を聞いていると、高田三郎の合唱曲「水のいのち」の第1曲「雨」の歌が聞こえてきます。

降りしきれ 雨よ 降りしきれ
すべて 立ちすくむものの上に
また 横たわるものの上に

降りしきれ 雨よ 降りしきれ
すべて 許しあうものの上に
また 許しあえぬものの上に

私は、子どもの頃から、雨の音に耳を傾けるのが好きでした。
家の窓を開け、聞こえて来る雨音にずいぶん長い時間聞き入っていることがよくありました。子どもにも、すでに存在している過去があり、雨の音は、そんないつか過ぎ去った記憶の中にある風景を、よく蘇らせてくれたのです。
公園で遊んでいるときに突然雨が降ってきて、木々の梢や葉っぱを鳴らすのを聞くのも好きでした。最近は余り弾いていませんが、ドビュッシーの「雨の庭」を弾いていると、子どものときの記憶が蘇ってきます。
十年くらい前までは、抜弁天近くの住宅街には、大きなお屋敷がまだ残っていて、雨が降る夜には、隠れていた蟾蜍が出てきて、コンクリートの上をのそのそと歩いているのに出会いました。
夜の雨が静かな住宅街に降り続き、蟾蜍が雨に濡れながら気持ちよさそうに歩いて行きました。
車のヘッドライトが近づいてきて、タイヤが濡れたアスファルトをこする音が、雨の音に進入してきます。
蟾蜍はときとして逃れることはできません。
雨がやんで朝になると、道の上には目を背けたくなるような光景が見られることになります。

ふと我に返ると、大学のキャンパスに、たくさんの雨の音があふれていました。

無数の雨の音には、ひとつとして同じ音はありません。
しみじみとした気分とか、哀しい想いとか、過ぎ去った記憶の中にある風景とか、あるいは目の前に繰り広げられている光景とか ― それら雨の音たちとは何の関係もないことがらからまったく自由になって、ひたすら雨の音に耳を傾けることができるようになる日が来るのだろうか、と思いました。
そのとき私の耳は、それぞれ異なる一つ一つの音を聴き分けることができるようになるのでしょうか。
そんな日は来るのだろうか。もし、来るとしたら、それは、月日が経つうちに自然にそうなるのか、それとも、自分を、何といっていいか分かりませんが ― むなしくするような、何か意識的な心の持ちようが求められるのか、まだ私にはわかりません。

コメント

  1. YUKO より:

    安曇野のお兄さま!メッセージ、ありがとうございます。安曇野に降る雨は、透き通るようにきれいでしょう!ぜひまたお伺いしたいです。安曇野のみなさまにどうぞよろしく!!!

  2. azumino6419 より:

    久々に祐子さんのブログを拝見しました。
    雨にもいろんな降り方を聞いていると確かに雨を題材にした音楽が思い出されますね。
    ショパンも病の中で雨音を聞いて作曲した心境も分かりますよね。
    日本歌曲、歌謡曲でも「雨」のつく曲が多いですし、ヒット曲も生まれています。それだけ雨は人の心を惹きつけるものがあるのでしょうね。
    今、九州で降っているような大雨はこりごりですが、相合傘で歩く程度の雨はさらに恋人の愛が深まりそうですね。
    いろいろと多忙な祐子さん、まあ骨休めに安曇野へお越しください。
    懐かしい昔の思い出が蘇れば嬉しいです。
    楽しみにお待ちしています。