チェンバロvsピアノ

古楽器との最初の出会いは、クラヴィコードの密やかなタッチでした。弦を金属片でつつくだけ、、というささやかな音量なのに、細やかなニュアンスを出すことができて、その上指を震わせることでヴィブラートまでかかる鍵盤楽器。それまでピアノ一直線だった私にとって、その体験は衝撃的でした。その後、ショパン時代、モーツァルト時代、ベートーヴェン時代、シューベルト時代のフォルテピアノを弾くようになり、作曲家の愛用した楽器と作品の密接な糸に手繰り寄せられるように「歴史的ピアノの音」に引き込まれていきました。

そんな中、私のチェンバロ歴は他の鍵盤楽器に比べて長くありません。「強弱」と弾いても「強強」と聞こえてしまうことへの抵抗。弦をはじくかはじかないか、の選択肢しか許さない冷酷さ、、、。チェンバロでできないことを数え上げている自分がどこかにいたのです。

けれど、マルク・デュコルネ氏制作の名器に出会い、豊かな音色に包まれるうちに、だんだんと弦をはじいて音を出すことへの違和感が快感に変わってきました。

強く目立たせたい音に対してタッチの強さではなく時間のかけ方や弾く回数(装飾音)などで強調したり、ピアノのように足ペダルで音を保持できない分 典雅なトリルで空間を震わせながら紡いでいったり、ストップの操作で音色を劇的に変えたりすることができる楽しさ、そんな計り知れない魅力を持っていることをあらためて感じる今日この頃です。

「チェンバロはピアノの前身」という言葉には、発展の末、歴史の中で淘汰されてしまった鍵盤楽器というイメージがつきものですが、その考えは自分の中で完全に払拭されてきました。

3月中旬から8月まで予定していた全てのコンサートが中止になりました。そんな中、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」をチェンバロでつま弾く時間ができ、自分自身の精神を安定させる音律に救われました。特にありがたいのは、2段鍵盤用にかかれた変奏曲は、やはりチェンバロの2段鍵盤で弾くと実に自然なのです。ピアノで弾くときには、両手を重ねたり、左右で譲り合ったり、伸ばすべき音を一回離鍵してそっと押し直したりしていましたが、そういう「苦労」や「工夫」の必要は全くありません。

ある貴族の不眠症のためにゴールドベルク少年が演奏したという逸話は信憑性に薄い気がしますが、外出を控えるせいか夜眠れない、、、とぼやく母の耳もとで、いつか弾いてみようと思っています。

コメント