「ピアニスト無用論」

11月29日の朝日新聞に、「音楽評論、原典を見つめ直す」という記事が掲載されていました。
その中に、次のようなくだりがありました。

「音楽界の風雲児、兼常清佐(1885~1957)の全貌を振り返る著作集(全15巻・別巻、大空社)も昨年完結した。「ピアニスト無用論」では、タッチの違いによる音色の差異など、マニアックな指摘を並べた演奏評をナンセンスと喝破。「パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない」と言い放った。
 著作集編集に携わった日本音楽研究者の蒲生美津子さんは「重箱の隅をつつく評論が演奏家を萎縮させ、音楽業界を閉塞させると兼常は感じていた。言葉こそ乱暴だが、大衆と音楽の現場の絆を必死で守ろうとしていたように映る」と言う」

「ピアニスト無用論」とは、これまた豪快でインパクトがあるのもたしかですが、いささか寂しい題名の著作です。
この記事を読む限り、兼常清佐という人は、ものごすごく大きな視点で音楽評論というものを捉えていたように想像しますので、あまり気にすることはないのかもしれませんが、パレデフスキーと猫が同じ音を出すはずはありません。
また、「重箱の隅をつつく評論が演奏家を萎縮させ」るというのは、私の実感からはかなり遠いような気がします。
ピアノを弾く上で、細部をどう弾くかはとても重要です。厳しいけれど適切な批評は、演奏家を進歩させます。不適切な批評だと思えば、気にする必要がないだけのことです。

先日、邦楽界の批評家の方のお話をお聞きしました。
その辛辣な批評家は、惚れこんだ相手のことをコテンパンに批評するのだそうです。才能がないと思っている相手の舞台は無視。
批評する価値があると認める人だけを厳しく批評し、書かれた本人はそれを読んで、悔しいけれどあたっている、と真摯に受け止め、自己の研鑽につなげ、芸がどんどん磨かれていく、という関係だったそうです。
晩年、あるパーティーでその批評家が、
「最近よくなったね」
と声をかけた相手は、
「あなたのせいですよ。あなたの批評が私を育てたのです」
と答えたそうです。
何十年もの間、批評家と芸術家がこういう関係であり続けるのが、批評のあるべき姿かもしれません。

演奏家の理解者であり、厳しい言葉で育てていく、という存在。
シューマンは、批評活動も活発に行っていた人でした。
ショパンやブラームスを世に送り出したのもシューマンの言葉です。
今読むと、ショパンのソナタなど、的はずれのように思える文章もあるのですが、
「諸君、脱帽したまえ、天才が現れた」
と、この同い年の音楽家の才能を真っ先に見抜いたのもシューマンでした。

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