元日からブレンデル

brendel新年のご挨拶を申し上げます。
バラエティや大仰なドラマばかりのテレビを見るのはやめ、だいぶ前にファンの方からいただいた「音楽ドキュメンタリー アルフレード・ブレンデル」を観ることにしました。
実は、ブレンデルはピアノ弾き仲間ではあまり人気がありません。
華やかさやカリスマ性に欠けるのか、音色で勝負するタイプではないのか、あまり風采が上がらないタイプだからのか(失礼!)わかりませんが、きょうも、是非、ブレンデルを観たい!というわけではなく、たまたまラックにあったから、という程度の動機でした。

始まった途端、引き込まれました。
ドキュメンタリーは、ブレンデルのとつとつとした語りから始まりました。
「自分は記憶力がいい方ではない」「初見も即興も得意ではない」「どうしてピアニストになったのかわからない」といったコメントは、自意識にあふれた多くの有名ピアニストの言葉とはまったく違っていました。
子供の頃からの生い立ちが回想されており、幼なじみとのやりとりも興味深いものでした。
ブレンデルの両親は、アドリア海の沿岸でホテルを経営していたそうで、音楽にはまったく興味は示さなかったそうです。ブレンデルが馴染んだのは、映画だったようで、1930年代、ナチスのプロパガンダ映画を含めて、かなりの数の映画をよく観たそうです。そこに流れていたテノール歌手の音楽が、初めての音楽体験と言っても良いそうです。
第2次大戦が終わり、ソ連軍が撤退した後のグラーツに移り住んで、ピアニストへの道を歩むことになります。
しかし、有名な音楽家に師事したわけではなく、ウィーンでは、特定のサークルには属さず、「エイリアン」と言われていたそうです。
ブレンデルは、1950年代にウィーンで、シューベルト・チクルスを始めますが、当時のウィーンの人々は、シューベルトのことをとっくに忘れていたようです。
ウィーンでなぜシューベルトが弾かれるのかという問に、ある批評家が「ウィーンにはシューベルトが吸った同じ空気がある」といった趣旨のコメントを、「事実ではない」と反論していました。
ウィーンの人々にシューベルトの価値を再認識させたのは、自分である、という自負が感じられました。
ロンドンには、1971年から住みますが、なぜロンドンだからというと、ヨーロッパ「最大の都会だから」だそうで、コスモポリタンのブレンデルの気質に合う街なのでしょう。
ブレンデルは、自分のルーツは、イタリア、クロアチア、ドイツ、オーストリアにまたがっており、自らをコスモポリタンのヨーロッパ人だと考えているようです。この感覚は、モーツァルトに近いものがあります。
ロンドンの自宅で、ブレンデルは、チェリストの息子さんとと一緒に、モーツアルトのピアノ四重奏曲やピアノ協奏曲を弾いていました。
ブレンデルは、モーツァルトは「芸術家には難しすぎ、子どもには簡単すぎる」というシュナーベルの言葉を引用していましたが、この引用は、ブレンデルの何かの論文で読んだことがあります。
ブレンデルのモーツァルトに関する著作には前から興味があり、国立音楽大学で学生の試験問題に出したことがあります。

国立音楽大学演奏論A2007年試験問題

しかし、ブレンデルの人となりや生い立ちはあまり知らなかったので、元日からとても触発されるひとときでした。

昼過ぎから、近くの西向天神に初詣に出かけました。

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